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第八章(⑫)
カトウを居間に案内した後、クリアウォーターは着がえるために二階に上がった。書斎とドアひとつでつながっている彼の寝室は元々、両親がベッドルームとして使っていた部屋だ。
クリアウォーターが暮らす邸は、都内の某女子大学が外国人の講師とその家族を住まわせる目的で二十世紀の初めに建てたものである。その居住者の中には、牧師であり、女子大学で英語の非常勤講師も務めていたクリアウォーターの父親も含まれている。
一方、クリアウォーターの母親は、一家が過ごした家に思い入れがあったのだろう。スコットランドの貴族に連なるこの女性は邸を今後も維持して欲しいという名目で、日本を去る時にかなりの額の金銭を大学に寄付していた。敗戦後、邸が奇跡的に接収を免れたことを知ったクリアウォーターは、つてをたどって住むことにこぎつけたのであるが、その時に母が過去に行った寄付が何らかの形で影響したことは間違いない。
ジャケットを脱いで、クリアウォーターはクローゼットからシャツを取り出した。一家が日本を離れて二十年という歳月の間に、内装はいくらか変わっていたが、据え付けのクローゼットは昔のまま残っていた。子供の頃、姉とかくれんぼをする時、格好の隠れ場所だった。服にしわをつけたことで、母にはたびたび叱られた。そのそばで、父は笑ってもっといい隠れ場所を提案してくれたものだ。
…小さな感傷が、さざ波のようにクリアウォーターの胸の奥で揺れた。両親の片方と言葉を交わしたのは、もう一年以上も前のことだ。もう片方とは、もう何年も口をきいていない。息子が爆殺されかかったことを知ったら、二人はどんな反応をするだろうか――?
答えを見いだせないまま、クリアウォーターはクローゼットを閉じた。
肉じゃが。揚げ出し豆腐。それにタケノコとワカメの酢の物、菜の花のおひたしと白ご飯。それらをクリアウォーターが箸 を使って食べる姿は、カトウにはちょっと新鮮で、不思議な光景だった。カトウの表情で察したのだろう。クリアウォーターは得意げに笑うと、滑りやすいタケノコを器用につまんでみせた。
「言っておくけどね、子どもの頃はもっぱら家ではフォークとナイフだけ使っていたんだ。箸は日本に来た後、練習してマスターした」
「練習?」
首を軽く傾けるカトウに、急須を持ってきた邦子が教えてくれた。
「お暇 な時に、小豆 を小皿に入れて、それをひとつひとつ別のお皿に移していらしたの。そういう訳で、わたくしが掃除していると、時々家具の間から小豆が出てきましたわ」
小さな豆粒相手に四苦八苦する姿を想像し、カトウは思わず笑いそうになる。
クリアウォーターは澄まして答えた。
「何事も、繰り返し練習することで上達するものだよ。語学や射撃と同じことさ」
それは、もっともな理屈であった。
料理はいずれも美味であった。カトウが寄宿する曙 ビルチングの食事は決して悪くない。それでも、この食卓の品と比べれば、カトウはこちらに軍配を上げたかった。
料理の腕も去ることながら。ホコリひとつ落ちていない床といい、整頓された室内といい、西村邦子は家事要員として、得難い人材のようだった。
湯のみの緑茶をすすりながら、カトウは給仕するお手伝いさんの姿を眺めた。邦子は女性としては大柄な部類に入る方で、実のところカトウよりも背が高い。しかし、それでいて他人を威圧するという雰囲気は、全く感じさせない。洗練された中にどこか茶目っ気のある仕草は、愛くるしいという印象を周囲に与える。着ている服も化粧も地味だが、英語での日常会話に不自由がないことからも、おそらくは、それなりに裕福な家の出なのだろう。
カトウに向けて、邦子はにっこり笑った。
「加藤さん。ごはんのおかわりは、いかがですか」
「あ…いえ、もう十分にいただきました。すごく、おいしかったです」
「あら、うれしい。ありがとうございます。それじゃあ、豆大福を持ってきますね。お茶も淹れ直しますので」
邦子が席を立つ。
その姿がキッチンの方に消えたのを見はからって、クリアウォーターが言った。
「カトウ。このあと、少し時間をもらえないか」
話がある――うまい料理で弛緩していたカトウの身体は、そのひと言でたちまち強ばった。クリアウォーターの表情の微細な変化で、カトウはすぐに理解する。何の話をするつもりか、聞かずとも明らかだった。
邦子がせっかく買ってきてくれた豆大福は、あまりおいしく感じられなかった。
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