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第八章(⑬)

 食後、クリアウォーターは一階の小図書室にカトウを招き入れた。座るよううながされて、カトウは仕方なくソファに浅く腰かける。そのソファの上でクリアウォーターにキスされたのは、ついこの前の日曜のことである。そのことに気づき、カトウはやや呆然となった。  それでも、これからの話の展開はある程度、予想できた。それに対する自分の答えも、今は持ち合わせているつもりだ。 ――あれは、一度きりのことにしよう――  クリアウォーターが言うのは、多分そんなところだ。もうカトウに興味など持っていないのは明らかなのだから。きっと、答えは簡単な方がいい。それこそ「イエス・サー」くらいで。  クリアウォーターは、古めかしい地図のかかった壁の前で立ったまま座ろうとしなかった。口を閉ざしたまま、緑の眼をただカトウに向けている。カトウに心の準備をさせる、彼なりの気遣いだとしても、少し長すぎる。  ようやく、何かおかしいとカトウは感じ出した。 「カトウ……」  呼びかけて、そのままクリアウォーターは言いよどんだ。普段、饒舌なくらいの彼にしてが、珍しく口を開くのをためらっている。だが、まもなく決心したように話だした。 「まず、この前の夜のこと。酒は入っていなかったから、忘れてはいないね?」  カトウが予想していなかった方向から、クリアウォーターは切り込んできた。「忘れてはいないね」だって? あれを――痛みと、それ以外のものがぎちぎちに詰めこまれた、あの濃密で鮮烈な時間を、忘れろと言う方が無理だ。 「……覚えています」  ぶっきらぼうにカトウは言った。軽く怒りすらこめて。だが、すぐにクリアウォーターがどうしてそんなことを聞くのかと(いぶか)しむ。  しかし、深く考えるより先に「よし。じゃあ、その前提で話を進めるよ」と言われた。 「あの夜のことで、君を驚かせたし、きっと傷つけたと思う。ただ、私は……」  そこで、また曖昧な表情のまま口を閉ざした。  本当にどうしたのだろうか、とカトウは逆に心配になってきた。  相手の性格を見抜き、巧みに言葉を選んで、コントロールされた笑みを浮かべて語りながら、いつしか場の主導権を握っている――その技巧は突出していて、余人の追随を許さない。  それがカトウの上官。ダニエル・クリアウォーター少佐のはずだ。こんな、つっかえつっかえでぎこちない言動は、全然、彼らしくなかった。 「あの、少佐……?」 「ああ、くそ。私は君の返事を聞くのが正直恐い。だから時間がないと言い訳して、確認するのをずっと先延ばしにしていた。でも、これ以上はむりだ」  クリアウォーターはカトウの正面の椅子に腰を下ろす。視線が正面から合う。 「君との関係を、あの夜のことだけにしたくないんだ。ジョージ・アキラ・カトウ。どうか、私との交際を真剣に考えてくれないか?」  カトウにとって、それは予想外どころの話ではなかった。  完全な奇襲もいいところだった。  さもなくば空耳か。酒は飲んでいない。肉じゃがに入っていたみりんで、酔ったのでなければ。  カトウのお粗末な英語力を思い出し、「交際」の意味がきちんと伝わっていないことを危惧してだろう。クリアウォーターは、三歳の子供でも分かる三つのワードで言った。 「君を愛している(I love you)

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