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第八章(⑭)
カトウの思考は真っ白になった。座ったまま、バカみたいにクリアウォーターを見返す。
真剣な面持ちを見つめる内に、カトウは否応なく理解した。冗談など言っていない。クリアウォーターは本気だ。そうと悟ったとたん、疑問がどっと押し寄せてきた。
――何でだ?
――遊びじゃなかったのか。カトウにもう興味など、持っていないんじゃなかったのか。
――というより、フェルミがいるじゃないか。それに他に恋人がいるんじゃ……。
――相手なんていくらでもいるはずだ。いくらでも選べるはずだ。
――なのに。どうしてカトウみたいな貧相で、半分幽霊みたいな男に、真剣になっているんだ?
クリアウォーターの言葉はある意味で、カトウの心に傷をつけ、深くえぐった。
硬く凍てついていたはずの表面を、いとも無残に壊して、その中に隠れている本心を引きずり出そうとしている。
カトウは震えそうになる手を握りしめた。
――もし、イエスと言ったら?
クリアウォーターを受け入れたら。熱っぽいキスも、セックスの痛みも、抱き合った時に身体を貫いた満たされた想いも――全部、受け入れたら…?
クリアウォーターは口を引き結んだまま、カトウを見つめている。答えを待っている。不安と期待で上気した顔を見ていると、今日の昼間、岩下の尋問に手腕を振るった冷酷な情報将校と本当に同一人物かと疑いたくなる。
笑顔の仮面の下にある本当の姿。
それはびっくりするくらいに純粋で、不器用なのかもしれない。
カトウは口を開こうとする。自分でも何を言うか、分からないままに。一瞬、「考えさせてほしい」という言葉が口の端をかすめる。だが、すぐにそれを打ち消した。
ーー中途半端な期待を持たせてはいけない。
ーーありもしない希望をクリアウォーターに与えてはいけない。
ーーあれきりにすると、もう決めたのだ。だって……――。
「…ごめんなさい」
謝罪の言葉を、カトウはのどの奥から必死でしぼりだした。クリアウォーターの顔が強ばるのが分かった。言葉を継ぐのは、さらに苦痛を伴う行為だった。
それでも、カトウはやめなかった。
「俺には、無理です。あなたの好意を受け取る資格なんてない。だって――」
そして決定的なひと言を言った。
「俺は、あなたを愛していないから」
言い終えた後、カトウが今まで味わった中でも、とびきり重い沈黙が流れた。本当は一分もなかったはずだが、カトウには何時間にも感じられた。
クリアウォーターがようやく口を開いた。
「――分かったよ。もう十分だ」
それで話は終わった。もう二度と、このことが持ち出されることはないだろう。
一体、どちらがよりひどい顔をしているのか。傷ついたのか。
カトウにはよく分からなかった。
小図書室から出てきたカトウが帰ると言い出した時、お手伝いの邦子は心配そうな顔で引きとめた。
「このあたりは街灯もあまりありませんし、今の時間は本当に真っ暗ですよ。二階には客室もございます。もし、明日お仕事がないなら…」
暗に泊まっていくことをすすめてくれている。しかし、カトウはかぶりを振って、懐中電灯を借り受けることを求めた。邦子は、援護を求めて赤毛の雇い主の方を振り返った。
「帰るというなら帰らせなさい。あまり引きとめては悪い」
クリアウォーターはそっけなく言った。それでも、カトウが帰る段になって、見送りに玄関までやって来た。
「明日は、私は休みだ。日曜日は君が休み。日曜は、サンダース中尉に迎えに来てもらう」
「…了解しました。では、また月曜に迎えに来ます」
「ああ、気をつけて」
交わされる会話をかたわらで聞いていた邦子は、二人の声に先ほどまでなかったぎこちない響きを聞き取った。
懐中電灯をつけたカトウの姿が、門の向こうの闇に消える。見届けたクリアウォーターは、そのまま二階の自室に引き上げた。
そして、その晩はついぞ邦子のいる一階に下りて来ることはなかった。
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