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第八章(⑮)

 ……ハリー・トオル・ミナモリのことを、カトウが意識しはじめたのは訓練兵としてシェルビー駐屯地にやって来て、しばらく経ったあとのことだった。  カトウとその父親が暮らしていたマンザナー収容所で、カトウの父親はアメリカ政府――日系人たちから居住の自由を奪い、収容所に隔離した張本人たち――に協力的な日系人に、たびたび罵声を浴びせ、嫌がらせを繰り返していた。進んでアメリカの志願兵となる者など、彼の言葉を借りれば「日本人の面汚し」以外の何者でもなかった。  だからカトウが隠れて志願したと知った時、父親は激怒を通り越して半狂乱となった。狂態にものを言わせた男の暴力から、息子はからくも逃れ、そのまま訓練駐屯地行きのトラックの荷台にとび乗り、収容所をあとにした。  それがカトウと父親との最後の別れとなった。  とはいえ、カトウの父親のようなものの見方は決して珍しくなかった。アメリカ政府がそれまでの方針を大きく変更し、日系人からも志願兵を募ることを明らかにした時、収容所にいた本土(メインランド)居住の日系人の間で、これに応じるか否かで激しい対立が起こった。周囲の、そして親の反対を押し切って、すすんで陸軍に志願した日系二世(ニセイ)は、むしろ少数派に属した。それだけに――彼らは、志願者本人だけでなくその親兄弟にまで脅迫まがいの言葉を浴びせるカトウの父親のような存在を目のかたきにしていた。  マンザナー収容所の出身者から父親との血縁関係が伝わると、すぐにカトウは仲間であるはずの日系二世たちの間で孤立し、村八分の状態に置かれた。  カトウは失望したが、黙ってそれを受け入れた。これまでの人生で受けてきた暴力や虐待のことを思えば、無視されて、たまに人目のないところで小突かれたりするくらい、どうということもなかった。  ある日の訓練中、カトウが五六メートルの高さのネットから転落した。その時も、同じ小隊の青年たちは決して、自分からすすんで助けようとしなかった。  地面に転がり落ちた衝撃で、カトウはすぐに起き上がれなかった。自分を取り巻く世界がくるくると回転している。  その中から、最初に聞こえてきたのは「Are you all right !?」の声。それから「おい、大丈夫か!?」という日本語だった。  地面に伸びた小男に駆け寄って、医務室まで運んでくれたのは、別の小隊にいたハワイ出身の日系二世(ブダヘッド)たち――ミナモリと、彼の友人たちであった。  その日の夜、ミナモリはひとりで医務室まで、カトウを見舞いに来てくれた。 「ハリー・トオル・ミナモリだ」  ノッポの青年が名乗ったので、カトウもしぶしぶ言った。 「……ジョージ・アキラ・カトウ」  日本の富山にいた頃、カトウは母親の旧姓である宮野を通名として使っていた。父親の姓を使うことは嫌でしかたがなかったが、助けてくれた相手に偽名を言うほど、面の皮も厚くなかった。  カトウの名前を耳にしたミナモリは、口元をほころばせた。 「アキラ? 奇遇だな。俺の弟も、日本名はアキラって言うんだ」  一体、カトウの何が気に入ったのか、いまだに謎だ。しかし、翌日からミナモリはカトウを見かけると声をかけ、食事時など隣に座って話をするようになった。  それから一月もしない内に、カトウは中隊長からの命令で、ミナモリ達の小隊に移動させられた。カトウが小隊内で孤立し、排除されていることに中隊長が気づいたゆえの処置だった。これはカトウにとっても、願ってもないことだった。  同じバラックで寝起きするようになって、ミナモリとの仲はいっそう親密なものになった。  年の差は一歳だけだったが、ハワイ大学の学生だったミナモリは、カトウよりずっと大人びて見えた。頭もよく、射撃訓練では常にカトウと共に高得点保持者に数えられていた。  その半面、裕福な家の出で、大きな苦労をしたことがないせいか。ミナモリは時々、度の過ぎたお人よしぶりを発揮することがあった。カトウのひどい英語力を何とか向上させるべく、自分から教師役を買って出たのは、その最たるものだったかもしれない。  夜の自由時間になると、ミナモリはアメリカのどこかの小学校から寄付された教科書片手に、図書室の片隅でカトウに文法や単語の綴りを教えてくれた。他の日系二世たちが、煙草をふかしたり、サイコロ賭博に夢中になっている時間にだ。 「…なあ、トオル。お前、変わり者だって言われたことないか?」 「? いや。特には」答えて、ミナモリはカトウの手元のノートをのぞきこむ。 「うん。大分、上手に綴れるようになってきたじゃないか」  日焼けした顔を輝かせ、自分のことのようにミナモリは喜んだ。カトウが「お世辞はやめてくれ」と言っても無駄だ。とにかく、ほめずにいられないし、本当にそう思っているとしか思えない言い方をするのだ。  ミナモリは長い指を動かし、古びた教科書のページをめくる。日々の訓練でしだいに武骨になっていくとはいえ、元々、形のいい手だ。  その手から知らず知らずの内に、カトウは友人の横顔に目が引きつけられた。  図書室の薄暗い照明が、ミナモリの面差しに昼間にはない陰影を与えている。陽性の魅力に闇の艶やかさが加わって、まるで真夏の夜に現れた精霊のような姿だ。  今まで感じなかった欲求が、急にカトウの胸の奥から湧いて出てきた。 ――触れたい。  波打つ黒髪に。暖かい褐色の頬に。言葉をつむぐ柔らかな唇に――。  ミナモリがカトウの方に顔を向ける。その途端、魔法がとけたようにカトウは我に返った。 「どうした?」  よこしまな欲望を向けられていたとはつゆ知らず、ミナモリは人好きする笑みを浮かべた。 「俺の顔に、なにかついてるか?」  カトウはぶんぶんと首を振った。ミナモリはその奇態に、首をかしげた。 「おかしな奴だな――ほら、集中。次の問題にすすむぞ」  カトウの羞恥と葛藤に気づいた様子もなく、ミナモリは教科書にもどった。

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