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第八章(⑯)

 ミナモリに気持ちが傾いていくことを、カトウは止めることができなかった。  それでなくても、同じバラックで寝起きするようになった最初の晩から、カトウのベッドはミナモリの隣にあった。夜中に用を足しに行った後、ミナモリの枕元に立ったことは一再ではない。そのたびに、カトウは安らかな寝顔の友人に口づけたいという切実な欲求と、戦わなければならなかった。  十八、九才という年齢を考えれば、よく耐えた方だ。  だが出口を失った欲望は、いつしかコントロールのできない夢になって現れた。  細かい部分で違いはあれど、たいてい似た夢だ。淡い光と影が交差した座敷の(たたみ)の上に、ふとんが敷かれている。そこにミナモリがいる。座っていることもあれば、横になっていることもある。  だが、いつも決まって一糸まとわぬはだかなのだ。誘蛾灯(ゆうがとう)に魅かれる羽虫のように、カトウはふらふらと近づく。こちらも裸で――。  それから抱き合って、カトウが望んでやまないことを始める。  口づけて、互いの身体をまさぐり、やがて一つに融け合って――。  そして、たいてい起床ラッパの音が鳴り響いて、目を覚ますというオチだった。カトウが飛び起きた隣りで、寝ぐせのついた髪をなでつけながら、友人があくびまじりに今日も言う。 「おはよう、アキラ」と。  情けなく懊悩(おうのう)する日が、こうしてまた始まる。  だが、それは間違いなくカトウの人生でいちばん幸せな日々だった。   ーーーーーーーーーーーー  ……真っ暗な寮の部屋の中で、カトウはベッドに仰向けに横たわっていた。  クリアウォーターの邸から戻って来たあと、靴をぬいだだけで、着替えてもいない。さっきから発作的に喚きたい衝動に駆られるが、なんと叫んでいいかさえ分からなかった。 ――あれで、よかったんだ。  ずるずると流されるままに関係を続けても、いいことなんて一つもない。結局はクリアウォーターを失望させるだけだ。それを未然に防げただけでも、よかったはずだ。  恋多い赤毛の上官は、きっとすぐに新しい恋を見つけるだろう。あるいは、現在進行形の別の恋をうまく形にしていくに違いない。あの(ひと)なら、きっと……。  クリアウォーターのことが、頭の中から消えてくれない。  枕をつかんだカトウはそれに突っ伏し、信じてもいない神に向かって(のろ)いの言葉を吐いた。元より、物ごころついた頃から、人知を超えた者に対して大した信仰心も持っていない。ヨーロッパの戦場で過ごす内に、それもゼロを通り越して、今やマイナスの数値を示している。  本当に慈悲深き存在がいるのなら、人間同士の戦争など起こさせはしない。  あんなに無慈悲で、無意味な死を量産し続ける場所を、見過ごすはずがない。  それでも、もし神がいるとしたら。  その襟首をつかんで、カトウは喚き散らしてやりたかった。 ――どうしてハリー・トオル・ミナモリを奪っていったのかーー ーーどうして戦争が終わる前に、カトウの頭蓋にも銃弾を与えてくれなかったのかーー  あの夜に、全てが終わっていたら――敵への殺意も、戦友への慕情も、その喪失の悲嘆も、二度と感じずに済む身になっていたら。  ミナモリひとりだけを愛し抜いて、それでおしまいを迎えていたら。  カトウは嗚咽をこぼした。 ――こんなに。みじめな思いをせずに、済んだはずなのに。  

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