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第九章(⑥)
サンダースは二度目のあくびをかみころして、つぶやいた。
「年ですかね。昔は徹夜しても、さほどこたえなかったんですが」
「私も君も、午後出勤だから。少し眠って、リフレッシュしてから来ればいい」
「いえ。片づける雑事もありますから…」
「何なら、これから我が家に来るかい? 今ならもれなく、私のベッドの隣はフリースペースだ」
常日頃であっても、それは不謹慎というべきひと言である。教会という場所を考えればなおのことだ。サンダースは、クリアウォーターをじろりとにらもうとして、そこで憂いの表情に気づく。眼鏡をくいっと上げた青年は、むすっとした口調で言った。
「カトウにふられたんですか?」
「……うん。その通りだ」クリアウォーターは認めた。
「一体、何がまずかったんだろうね」
「知りませんよ」サンダースは、すげなく言った。
上司の色恋に関して、この有能な副官はきわめてドライな反応をする。クリアウォーターは苦笑いするしかなかった。
「…ねえ、スティーヴ。カール・ニースケンス中佐にふられた時、私はどれくらいで立ち直ったけ?」
「一ヶ月かそこらでしたね」サンダースは即座に答えた。
冷淡なくせに、クリアウォーターが回復するまでの時間はしっかり覚えていたりするのだから、不思議なことだ。
「じゃあ今回も、それくらいかかるかもね」
「…カトウがU機関に来て、まだ一ヶ月も経っていませんが」
もっと言えば、寝たのは一回きりだろうと、サンダースは内心でつけ加える。
それを見透かしたように、クリアウォーターは「嘆かわしい」とばかりに首を横に振った。
「恋愛の深さは、時間の長さと必ずしも比例しないよ。シェークスピアの『ロミオとジュリエット』がいい例だ。出会ってから二人が悲嘆の末に死ぬまで、一週間もかかっていないじゃないか」
「あれはフィクションでしょうが」
「でも三百年以上たった今も、作品は各地で上演され続けている。なぜか? そこに、人間が普遍的に求める真実が含まれているからさ」
サンダースは肩をすくめた。
「俺には一生、縁のない話ですね」
「…『誰に対しても、完全な信頼を寄せることができないから』か?」
「……」
「安心したまえ、スティーヴ・アートレーヤ・サンダース中尉」
クリアウォーターは、不意に唇をつり上げた。先ほどまでの意気消沈ぶりが、刹那に蒸発する。生まれついての俳優の面目躍如というべきか。自信に満ちた、ふてぶてしいくらいの笑顔には、同性愛者でないサンダースでさえ一瞬、魅入られた。
「恋は不条理きわまりないものだ。その点で、死に似ている。どんな聖人も、無慈悲な悪党も、区別なくその鉤爪にひっかけられて、絡めとられてしまう。たとえそれが、君のような根の深い人間不信男だとしても――」
クリアウォーターは間を置いてつけ加える。
「『父と子』に出てくるバザーロフ(イワン・ツルゲーネフの小説。主人公バザーロフは無神論者でニヒリスト)みたいに、なにかにつけて冷笑的で、斜に構えた皮肉屋を気取っていたとしても。恋に落ちる時は落ちるんだ」
誰を指して言っているか、サンダースもすぐに分かった。だが、口には出さない。
出したのは別のことだ。
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