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第九章(⑧)

 最低な気分で土曜日をやり過ごしたカトウは、最低の気分のまま日曜日の朝を迎えた。  身体が重く、ベッドから起き上がるのも億劫だ。九ヶ月前なら大麻に逃げ込んだかろうが、今はそれも無理な話だった。  日曜日の朝の九時半。(あけぼの)ビルチングが、もっとも静かになる時間帯だ。出かける人間は出かけてしまい、昨晩、遅くまで遊び歩いていた者はまだ夢の中にいる。管理人の杉原が掃除を始めるのは、たいてい午後になってからだ。  ベッドの中で、カトウは目覚めてから何度目かの寝返りを打った。昨日は出勤日で、今日は丸一日休みだ。だからずっと寝ていても構わないのだが、いい加減、胃袋の方が空腹を感じはじめていた。一分ほどの葛藤の末、あきらめてベッドからのろのろと這いだした。  そのまま窓辺のカーテンを引こうとした時、唐突にドアがノックされた。振り返り、カトウは顔をしかめた。 ――ササキの奴。また朝っぱらから、映画のさそいか?  苛立っていたカトウはドアにつめ寄ると、それを乱暴に開けた。扉が鼻先をかすめ、立っていた人物が「うわっ」とのけぞる。一瞬、頬をふくらませた男は、それでもカトウを認めると、マシュマロのように滑らかな右半面と、火山の火口のように溶けてくずれた左半面を、均等に輝かせて言った。 「あ。よかった。いてくれた。おはよう、ジョージ・アキラ・カトウ」  顔の半面がつぶれたカトウの同僚。トノーニ・ジュゼベ・ルシアーノ・フェルミ伍長だった。 「………」カトウはきっかり二秒間沈黙し、それから無言でドアを閉めにかかった。  しかし目的を果たす寸前、「ちょっと!」の慌てた声とともに、フェルミがドアのすき間に腕を突っ込んできた。 「待ってよ。何でいきなり閉めようとするの! いくらなんでも、ひどいよぉ…」 「うるさい! というか、なんでお前がここにいるんだ!?」  フェルミは別の宿舎に住んでいるはずだ。日曜の早朝に訪問を受ける理由など、カトウはひとつも思い当たらない。何よりクリアウォーターとの一件で、個人的に会いたくない相手のひとりだ。もちろん今、ダントツで会いたくないのはあの赤毛の少佐だが。 「開けて!」「いやだ!」の押し問答が、ドアをはさんで続く。 「すごく、大事なことで来たんだって!」フェルミが叫んだ。 「ほんとに、ほんとに、大事な話なんだ。うまくいったら、ダンや君を殺そうとして逃げた日本人たちを逮捕できるかもしれない」  カトウの抵抗がほんの少し弱まる。それでもまだドアを押さえたまま、すき間からフェルミを軽くにらみつけた。 「そんなに大事なことなら。クリアウォーター少佐のところに行けばいいだろう」 「もちろん、最初にダンのところに電話したよ」  ダン。その親しげな呼び方が、カトウのくすぶる感情に油をそそいだ。奇癖だらけのこの男は、人をフルネームで呼ばなければ気が済まないはずなのに、なぜかクリアウォーターのことだけは愛称で呼ぶ。怒るのは理不尽と分かっていても、気にくわないことはなはだしかった。  カトウの内心の苛立ちも知らずに、フェルミは続けた。 「でも、家のお手伝いさんが、ダンは出かけてて、今いないって。おまけに、いつ帰って来るかも分からないって言ってた。だから、ここに来たんだ。ほら、ここは君たち日系二世(ニセイ)が何人か住んでるから」 「…ならアイダ准尉やササキに頼めよ」  言ってから、今日は二人とも出勤日であることをカトウは思い出した。フェルミに聞くと案の定、二人ともすでに仕事にでかけたようで不在であった。  突きだした腕でカトウの肩をつかみ、フェルミは懇願せんばかりに言った。 「ジョン・ヤコブソンが入院している横浜の病院に、連れて行って欲しいんだ。もう一回。似顔絵に挑戦したいんだよ」 「でも、お前。ヤコブソンの記憶はあてにならないって、水曜日に言ってたじゃないか」 「違うよ! あてにならないのは描写力の方だけで、記憶はしっかりしているんだ。だから――」  フェルミはドア越しに説明した。聞き終えて、カトウに迷いが生じた。  フェルミが思いついた方法は、確かに有効かもしれないと思わせた。  つぶれていない方の目に期待を込めて、フェルミはカトウを見つめてくる。 ――ああ、いやになる。  気に食わない奴なのに。なんで、こんな小鹿のように純粋無垢な目をしているんだ?  カトウは数秒、逡巡した末についに根負けした。 「……そこで待ってろ。今、着がえる」

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