130 / 264

第九章(⑩)

 横浜へ向かう経路として、新宿駅から横浜へ向かう東急線の連合軍専用列車を使う手がある。これは海老名を経由するため時間こそかかるが、乗車するのは連合軍関係者だけである。  アイダからの忠告をカトウは全面的に受け入れるわけではないが、守れる時は守るとは思った。さらに言えば、フェルミのように次の行動が予測困難な男を連れて、日本人の間を歩き回るのはできるだけ避けたかった。考えるだけで、疲れてくる。  ……ところが、だ。新宿駅で国鉄から東急線に乗り換えようとした時、さっそく問題が発生した。列車からホームへ降りた途端、フェルミが突然、すっとんきょうな声を上げたのだ。 「あっ、しまった!」 「どうした」 「忘れ物しちゃった。取りに帰ってもいい?」 「はあ? 横浜行きの列車の発車時間まで、三十分もないぞ」  何を忘れたんだ、とカトウが聞くと「マスク!」と答えが返ってきた。 「ほら。ぼく、この顔だから。病院の人たちをびっくりさせないために、マスクつけないと…」 「いらない!」  カトウはぴしゃりと言った。フェルミがぐずりそうな顔になる。カトウはそれを無視して、さっさと改札口へ向かった。  上野駅ほどではないが、新宿駅もこれから近郊の農村へ買い出しに向かおうという日本人の姿があちこちにみられた。彼らの間を、カトウはなるべく早足で、前だけ見て歩いていく。列車の発車時刻が迫っているということもあるが、理由はそれだけではない。  自分は日系アメリカ人であり、れっきとした占領軍兵士だ。  それでも、つぎはぎのあてられたモンペをはいて、くたびれた顔で背嚢を背負った女性や、ひげの手入れもろくにいきとどいていない復員兵らしい男たちを見ると、どうしようもない居心地の悪さを感じた。  ニイガタたちと一緒にいる時はそれほどでもないが、一人で行動していると、自分だけが、ふさわしくない所にいる――そんな錯覚を覚えてしまう。  カトウはしばらく行ったところで後ろを振り向き、フェルミがちゃんとついてきているか確かめた。 「……って!? どこいった!!」  ついてきていたはずの青年が、忽然と姿を消していた。  

ともだちにシェアしよう!