131 / 264

第九章(⑪)

 カトウはあわてて、人ごみに目を走らせた。幸いなことに、日本人の間にいるアメリカ軍人は、魚の群れの中に入れられたウサギくらいに目立つ。すぐ二十メートルほど後方に、カトウはフェルミの姿を見つけることができた。 「何してるんだ!」  つめよったカトウは、フェルミの肩を叩いた。振り返ったフェルミは、のんきに「あ、ジョージ・アキラ・カトウ」とにこにこ笑った。 「助かった。ねえ、通訳お願いできる?」 「はあ?」 「この人たち、英語通じないんだ。イタリア語も」  見れば、フェルミの前に日本人の母子がいた。突然、世にも恐ろしい面相のアメリカの軍人に呼びとめられて、母も男の子も途方に暮れた様子だ。  というか、びくついている。当然だ。  フェルミはといえば、それに気づいた様子も、気にしている様子もなかった。 「ねえ、お願い。日本語で『そのマスク、お菓子と交換してください』って、伝えて」 「マスクって……」  カトウが母子をよく見ると、男の子の方が縁日などで見かけるお面を手にしていた。  和紙でつくられ、彩色をほどこされた狐のお面。 「…やめとけ」  カトウは言ったが、フェルミは「やだ」と聞く耳を持たなかった。カトウが協力してくれないと分かると、なんとかがみこんで、男の子と直接、交渉し出した。 「お願い。そのお面と、チョコレート交換してくれない?」  フェルミはお面を指さし、「チョコレート、チョコレート」と言いながら、手わたしする動作を繰り返す。たいしたもので、子どもは変てこなアメリカ人の言わんとするところをたちどころに理解したようだった。彼はすぐに最低限の語彙で、的確な返事をかえした。 「テン・チョコレート! ギブ・ミー・テン・チョコレート(十個ちょうだい)!」 「……」カトウは呆気に取られた。  その横で、フェルミがすかさず反応する。 「ファイブ。オンリー・ファイブ・チョコレート(五個しかないんだ)!」 「ノー。ギブ・ミー・テン(だめ。十個ちょうだい)」 「うー…セブン(七個)!」 「エイト(八個)!」 「セブン(七個)!」 「エイト(八個)!」 「…もう、分かったよ! 八個ね。あーあ。お昼ごはんがわりに食べようと思ったけど、仕方ないや」  フェルミは背負っていた背嚢をガサガサさせて、チョコレートバーを八本取り出すと、それを、男の子が宝物でも扱うように差し出したお面と交換した。男の子は受け取ったチョコレートバーの一本をポケットに入れ、残りを全て母親に手渡した。 「サンク・ユー。アイ・ライク・アメリカン(ありがとう。アメリカ人、好きだよ)」  元気いっぱいに言う男の子に、フェルミも笑って答えざるを得なかった。 「どうもありがとう。ぼくも日本人、好きだよ」  それから昼食を犠牲にして手に入れたお面を布で大事にくるんで、背嚢の一番上に置いた。 「…そろそろ行くぞ」  カトウがうながすと、フェルミは「うん!」と今度はおとなしくついて来た。  歩き出したカトウのうしろで、夫婦らしい若い男女の話す声が聞こえた。 「ねえ。あの、ひどい顔のアメさんと一緒にいるの。あれ、日本人じゃない? アメさんの格好してるけど」 「ふん。英語のできる奴は、取り入ってうまい汁を吸っているって話さ」 「あら。うらやましいもんね……こっちは食うや食わずやだっていうのにさ……」  カトウは聞こえなかったふりをして、そのまま歩き続けた。

ともだちにシェアしよう!