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第九章(⑫)

「うー…おなかすいた」  発車した列車の車両の中で、座席に寝転がったフェルミがなさけない声で言った。カトウは肩をすくめると、自分が持ってきたカバンを探って、小さなふろしき包みを取り出した。 「寮の朝食で出たパンだけど。食べるか?」  言った途端に、フェルミがぴょこっと起き上がった。 「うわ、すごい。準備いいや」  そしてひったくるように、ロールパンをつかんだ。カトウもひとつ手に取ってかじりつく。 ――アメさんに取り入って、うまい汁を吸う奴もいる。 ――うらやましいもんね。こっちは食うや食わずやだっていうのにさ――  カトウはため息をついた。自分の人生が、人より恵まれていたとはあまり思えない。それでも今、食べることに困る身分でないのは事実だ。大半の日本人からすれば、カトウは「うまくやった」人間に見えるに違いない。  過ぎ去っていく景色を眺めながら、カトウは夢想する。もし、自分が日本に残っていたらどうなっていただろうか。おそらく、十九歳か二十歳で徴兵されて、今とは異なる色の軍服を着ていたに違いない。アメリカ生まれの日系二世であっても、日本に残ったがために日本兵として徴兵された者がいることを、カトウも人づてに聞いている。  徴兵されたあとは? ーー中国か、南方か、あるいは別の場所に送られていただろう。  では、そのあとは……?  そのあとは想像もできない。  先ほどの日本人たちに、カトウが放り込まれたヨーロッパの戦場のことが、想像できないように。  だが、少なくとも確かなのは――日本に残っていたら、ハリー・トオル・ミナモリと出会うこともなかった。  戦後、日本に舞い戻り、U機関で働くこともなかった。  ダニエル・クリアウォーター少佐と、今のような関係になることもなかった――。  クリアウォーターのことを思い出し、カトウはまた気分が沈んできた。そこに、 「ねえ。ジョージ・アキラ・カトウ」  腹立たしいくらいに無邪気な顔で、フェルミがカトウを呼んだ。 「…なんだよ」 「パン、もう一個食べていい?」言いながら、すでに手が包みの方に伸びている。カトウは面倒くさくなって「勝手にしろよ」と言って目を閉じる。フェルミは小首をかしげた。 「どうしたの。気分悪いの?」 「…別に」 「じゃあ、どうしてそんなに暗い顔なのさ」  無視もできず、カトウは仕方なく口を動かした。 「たいしたことじゃない。昔のことを、ちょっと考えていただけだ」 「昔? 戦争に行った時のこと?」 「ああ」 「そっか。ぼくも時々、思い出すようにしてるよ。忘れないために」 「……?」  カトウは目を開けて、フェルミの顔をまじまじ見つめた。  あどけない天使のような半面と、無惨に破壊された半面を。  身体と心に消えない傷を負った経験ゆえに忘れられない――それなら理解できる。 ――だけど今、こいつは何と言った?  忘れないため?

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