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第九章(⑮)

 ヤコブソンは時々、目をつぶりながら、「これは違う」「こいつはさっきより近い気がする」と各パーツを選び出していった。ひとつのパーツを選ぶのに、かかった時間は一時間弱。最初のひとり分が選び出される頃には、すでに病室に西日が差し込む時刻になっていた。  フェルミはパーツを見ながら、すばやくスケッチブックに鉛筆を走らせた。 「こんな感じ?」  ヤコブソンとカトウがのぞきこんだスケッチブックに、三白眼でほほの丸い中年の男が描かれていた。ヤコブソンは目を閉じ、それからもう一度、スケッチブックを凝視した。 「…いや。年はもう少し若い。額は狭くて、目の端はもっと下がっている。それに眉も少し細く描いてみてくれ」  比較する対象ができれば、描写も容易になる。注文に応じて、フェルミは絵に微調整を加えていく。やがて出来あがった『首から上』を、以前に描いた『首から下』とつなげる。そうして、一枚の肖像画がついに完成した。  ひと目見るなり、ヤコブソンはうなった。 「――こいつだ。すっげえ。まるで、見てきたみたいな仕上がりだ」  カトウも感嘆した。表情は心の鏡、というが、常日頃からスケッチのために人間観察を欠かさぬフェルミは、物事の裏側まで見抜く目を持っているのかもしれない。  無味乾燥な似顔絵とは一線を画している。フェルミの描いた絵は、一度も会ったことのない人間をその内面まで含めて見事に描き出していた。これなら手配書として十二分に役に立つ。 「よーし、この調子で二人目……」フェルミが鉛筆を握る。  だが無情にも、その台詞が終わらぬ内に、看護士が病室の戸口に現れた。左手に狐のお面をかかげて、彼女は言った。 「そこのお二人さーん。面会時間は、とっくに過ぎていますよ!」 「よくやってくれた、トノーニ・ジュゼベ・ルシアーノ・フェルミ伍長! 君は天才だよ」  電話口から、クリアウォーターが手放しでほめる声を聞いて、ふくれ面だったフェルミも、ようやく機嫌を直した。公衆電話にもたれて、「えへへ」と照れ笑いする。 「半分はジョン・ヤコブソンのおかげだよ。それに、ジョージ・アキラ・カトウだって、ぼくを手伝ってくれたんだ」  フェルミはそう言って、そばにいるカトウに目配せする。嫌な予感がしたカトウはその場を逃げ出しかけたが、一歩遅かった。 「ジョージ・アキラ・カトウに電話、代わるね。――はい」  無雑作に差し出された受話器を、カトウは見つめた。  今から逃げても多分、間に合う。だが、意志に反して、足は一歩も動かなかった。  カトウはあきらめて、のろのろと受け取った受話器を耳にあてた。 「……カトウです」  一瞬の沈黙。それから「…やあ」と、なつかしい声が聞こえてきた。 「フェルミを、わざわざ横浜まで連れて行ってくれたそうだね。休みなのに、本当にご苦労だった」 「いえ、大したことじゃありません。明日もう一度、朝からヤコブソンと作業を再開して、残りの二人の似顔絵も作成します。そのために今晩、横浜に一泊したいんですが、かまいませんか? 宿代は、立て替えますので」 「もちろん。ホテル代は、帰ったら請求してくれ」 「終わったら、フェルミを連れてすぐに東京に戻ります」 「そうしてくれ…いや。せめて品川駅に迎えをよこそう。明日、列車に乗る前に一本、電話を入れてくれ」 「分かりました」 「あとは………君の方から、何かあるかい?」 「いえ、特には」 「………」 「………」  会話が途切れる。カトウはうつむいて言った。 「…それではまた明日、報告しますので」  そして相手の返事を聞くより先に、受話器を置いた。

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