136 / 264

第九章(⑯)

 病院に歩いて行ける距離にあること。そしてカトウの財布でも、立て替え可能な値段の宿であること。病院から徒歩五分のところにある民宿が、この二つの条件を満たした。  室内はそれほど広くないが、畳はまだ新しく、煙草の匂いもさほど沁みついていない。とりわけ、和室に初めて泊まるというフェルミは大はしゃぎした。 「タタミ、タタミ~。布団、布団~」  寝転がって足をパタパタさせる同僚の横で、カトウは浴衣とタオルと石けんを用意した。 「風呂、行くけど。お前はどうする?」 「えー…うーん、今日はいいや」  この辺りは、日系アメリカ人とイタリア系アメリカ人の文化の違いだろう。カトウはできるかぎり、身体は毎日洗いたい方だ。どうせあとは寝るだけだったので、フェルミを部屋に残して一人で浴場に向かった。  さすが日本人が経営するだけあって、小さいながらもちゃんとした浴槽が備えつけてあった。少し遅い時間であったが、風呂板を外して湯加減を確かめると、まだ十分に熱かった。  曙ビルチングの浴場には浴槽がない。そのため普段は、シャワーを浴びるだけだ。宿の白熱球の薄暗い灯りの下で、カトウは久しぶりに湯につかる感触を楽しんだ。 「あ~。生き返る……」  目を閉じて、肩の力を抜いた時、ガラガラと浴場の引き戸が開く音がした。ほかの「客かと思うまもなく、入って来た男は小走りで湯船に近づくとそのまま勢いよく水面にダイブした。  当然のごとく、盛大に湯飛沫が上がり、カトウの顔と髪をびしょびしょにぬらした。  時間差を置いて、湯の中からマナー違反の犯人が顔を突きだした。 「えへへ。やっぱり来ちゃった」 「…おいこら」カトウはすごんでみせた。 「湯船に入る前は身体洗うか、せめてかけ湯してからしろ、バカ野郎」 「あー、ごめん。次から気をつけるね」  いっこうに悪びれた様子もなく、フェルミは相好を崩した。 「ねえ、ジョージ・アキラ・カトウ。お風呂から出たら、またダンに電話するの?」 「………」なぜここでクリアウォーターの名前が出てくるのか、カトウにはちっとも分らなかった。逆にフェルミの方は、「全部お見通しだよ」と言わんばかりの顔つきだった。 「さっき。ぼくがいたから、遠慮したんでしょ? ダンと話すの」 「…話すことなんて、何もない」この上なくぶっきらぼうに、カトウは言った。 「仕事以外で、何もない」 「えー、うそばっかり――」  フェルミはそこで言葉を切って、小首をかしげた。  カトウの表情の険しさに、ようやく気づいたのだ。 「――何が言いたいんだよ、お前」  ざらついた声に、フェルミは一つしかない目をぱちぱちさせた。 「…ダンから、もう告白されたんじゃないの? つきあってくれって」 「……断った」 「えっ!? うそ。なんで?」 「なんでって――」  カトウは不意に危険な衝動にかられた。自分が子どもの頃にされたように、フェルミの髪をつかんで湯船に叩きつけてやりたい衝動に。実行する手前で、カトウはかろうじて押さえた。  理不尽だと分かっている。クリアウォーターを拒絶したのは、ほかならぬカトウ自身だ。それでも、行き場を失った怒りと――そして嫉妬で、声を荒げるのを止められなかった。 「ふざけるなよ! 無邪気なふりして、ぬけぬけと……俺のこと、本当は心の中で嘲笑ってんだろ? 何も知らないマヌケなやつだって!」

ともだちにシェアしよう!