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第九章(⑰)

 フェルミは呆気に取られた様子だった。 「ジョージ・アキラ・カトウ…?」 「ーーもだよ。お前、たいていの奴を長ったらしいフルネームで呼ぶくせに。あの(ひと)のことだけ、なれなれしく『ダン』なんて愛称で呼んで。お前、あの(ひと)の恋人なんだろ?」 「……ちょっと待って。恋人? 何の話?」 「この期に及んで、まだシラ切るのかよ? ――じゃあこの前の火曜のあれは何だよ。お前、少佐と廊下でキスしてたじゃないか。恋人じゃないっていうなら、あれは何なんだよ?」    言い終えるとカトウは、フェルミを黙ってにらんだ。  風呂場に沈黙が落ちる。フェルミもまた、口を閉ざしたままカトウを見つめ返した。けれども、整った半面には秘密を暴かれたいたたまれさは少しも見られない。  そこにあったのはむしろ、心底意外なことを聞いたというような表情だった。 「……確かに」フェルミは珍しく、言葉を選んでいるようだった。 「ぼく、ダンからキスしてもらっているよ。でも、よく思い出して。キスしてもらってるのは、唇じゃなくて…」  フェルミは指で自分の頬に触れた。 「ほっぺた。頬へのキスは、ママとか友だちからの愛情の証だって、知らない?」  カトウは答えにつまった。  あの時にクリアウォーターがフェルミの顔のどこにキスしたかなんて、ろくに見ていない。白状すれば、クリアウォーターがフェルミを抱きしめた後、とても見ていられずに廊下の物陰でただ聞き耳を立てていたのだ。  フェルミはため息をついて、口をとがらせた。 「ぼくだって。できたら、かわいい女の子からキスしてもらいたいよ。でも、だめなんだ。みんな、ぼくが近づくと怖がって逃げ出して行っちゃうんだーー」  黒目がちな瞳を伏せ、彼にしては珍しい悲しげな微笑を右半面に刻む。  そして、火傷のケロイドで覆われた左半面を指さした。 「ほら。この顔だから」  言葉を失うカトウに、フェルミは淡々と告げた。 「傷を負ったのが、顔じゃなくて。服で隠れて見えない所だったら、どんなによかったかって思うよ。リチャード・ヒロユキ・アイダとか……君みたいに」  カトウの身体が強ばる。背中や腹の醜悪な傷跡が他人の目にさらされていることに、今さら気づいたのだ。フェルミは、そんなカトウの様子に気づかぬように続けた。 「ーー分隊の仲間は、みんな黙ってどこかに行っちゃった。みんな、ぼくから逃げていった。残った人たちも、『かわいそうだ』で終わり。ぼくだって、みんなに喜んでもらえる仕事ができる。でも、誰もそんなこと考えもしなかった。ダンだけが、ぼくを一人前の人間として扱ってくれた。ブリスベンの病院にいたぼくのところに来て、『絵を描く仕事をしてくれ』って言ってくれ。その時ね、ぼくはずい分、意地悪な気分になってたから、つい言ったんだ。『この醜い顔にキスできたら、引き受けてあげていいよ』って。――それでどうなったと思う?」 「…どうなったんだよ」仕方なく、カトウは答えをうながした。 「『喜んで』って言って、キスしてきた――それも迷いもせずに、唇に。びっくりしたよ。『顔に』って言ったのにさ!! ぼくが怒ったら、『いつものくせで、ついうっかりした』なんて言ってあたふたしだして。それがあんまりにおかしかったから、許してあげんだ。その時だけだよ。口でしたの」  当時を思い出したらしく、フェルミはくすくすと笑う。それから、ふうっと息を吐いた。 「――ぼくだって、みんなと同じなんだ。寂しい時は誰かにぎゅっとしてもらいたいし、ぼくのことを大事に思ってくれている人がいるって、思い出させてほしい。ダンは、ぼくを見ても逃げなかった。だから、ダンにそれをお願いしたんだ」 「………」 「それと。ぼくがダニエル・クリアウォーターを『ダン』って呼ぶのは、そうしてくれって彼にお願いされたからだよ。『フルネームで呼ばれて正体を知られると色々、まずいことがあるから』って。だからぼくは、彼のことだけは『ダン』って呼んでいる。ただ、それだけのことだよ」  天井からぶら下がった白熱球が、ジジッと音をたてた。 「ジョージ・アキラ・カトウ。どうして君が、ダンの告白を断ったのか、ぼくには全然分かんないけど。ひとつだけ、分かるよ」  フェルミは少しのぼせてきた顔を、カトウに向けた。 「君、んでしょ? そうじゃなかったら、ぼくがダンとどんな関係かなんて一々気にしたりしないもん」  湯以外のことが原因で、カトウの顔は真っ赤になった。気まずいこと、この上ない。自分の勘違いが原因での自業自得とはいえ、これはちょっとした拷問だった。  ところが、フェルミはさらに、カトウをのっぴきならない所に追い込んだ。 「君がイヤな気持ちになるっていうなら。ぼく、もうダンとキスしないって約束するよ。ハグは……大目に見てほしいけど」  そのかわり、とフェルミはにへっと笑う。 「もう一回、ダンからの告白のこと、よく考えてあげて。彼は本当に、君にぞっこんなんだから」

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