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第十章(⑤)
執務室の扉がノックされる音で、クリアウォーターは我にかえった。
「――少し、待ってくれ」
そう言うと、机の上に広げていた資料とメモをまとめて引き出しに放り込み、急いで鍵をかける。「どうぞ」の声で入ってきたのは、筋肉質な上半身を持つ部下。ケンゾウ・ニイガタ少尉であった。
「ただ今、戻りました」
「ご苦労さま。首尾はどうだった?」
「…残念ながら。また外れでした」
ニイガタは、もすまなさそうに言った。金曜日に作成し終えた容疑者リスト――クリアウォーターが対敵諜報部隊 に所属していた頃に行った摘発に関与して出た、逮捕者とその近親者たちの一覧――を元にニイガタたちは、爆殺未遂事件に関与した者がいないかを調査を進めていた。現在の居所の特定できた者についてはニイガタが中心となって調べ、不明者についてもアイダが調査を続行していた。
それでも、土曜日から月曜の現在まで、残念ながらいまだ有力な手がかりは得られてはいない。肩を落とすニイガタに、クリアウォーターは慰めるように言った。
「私の方は、対敵諜報部隊 や何やらに呼び出されて、思うように調査を進められない。だからこそ、なおさら頼りにしているよ」
「…おまかせください!」
信頼と期待を寄せられていると思ったニイガタは、たちまち胸を張って答えた。クリアウォーターは笑ってうなずく。
だが、内心ではこの熱血漢の部下に対して真実を告げられないことに、もどかしさと罪悪感を感じていた。
――すべてが片付いたら。ちゃんと説明して、謝ろう。
もっとも、それもニイガタが裏切り者でなかったらの話だった。
……ケンゾウ・ニイガタは一九一二年、ロサンゼルス港に存在する人工の島、通称「ターミナル島」で、和歌山からの移民である両親のもとに生まれた。
自身の船を所有する裕福な漁師だったツネヨシ・ニイガタは、五人の息子にめぐまれたが、その内、一番学業優秀だった三男のケンゾウを大学にまで進学させた。卒業後、ケンゾウ・ニイガタはしばらく職探しに苦労したものの、最終的にロサンゼルス郊外にある工場で電気技師としての働き口を得た。その頃には兄二人は父親と同じ漁師の道を選んでおり、それぞれ家庭を持っていた。弟二人も、無事に独立した。
絵に描いたように順風満帆に見えた一家の生活は、日本軍による真珠湾攻撃で、たちまち暗転した。数日の内に、ロサンゼルス市内に暮らす日系人有力者が次々と逮捕されたが、何とその中にケンゾウ・ニイガタも含まれていた。逮捕された理由は今をもっても明らかではない。
だが、つきつめればおそらく理由は二つしかなかった。
ひとつは、彼がアメリカの敵国となった日本の血を引いていたこと。そして、いざとなれば工場の機能を麻痺させてしまえる電気技師という職についていたことだ。
さらに彼が少年時代の二年間を、父親の故郷である和歌山で暮らした「帰米 」であったことも影響したかもしれない。ともあれ、逮捕された半年後、日系人の収容所で家族と再会した時、ニイガタは父と兄弟がそれまでに積み上げたすべての財産を失ったことを知った。収容される際に、家財も所有していた船も二束三文で他人に売らざるを得なかったのである。
そういう事情があったゆえに。ケンゾウ・ニイガタがアメリカ陸軍情報部の誘いに応じ、語学学校で日本語を学んで戦地に赴くつもりだと言った時、父親と母親と四人の兄弟はそろって猛反対した。
収容所内で、ケンゾウは両親と一緒に、割り当てられたバラック長屋の一室で暮らしていた。そこに、長男夫婦と次男夫婦、それに弟二人が集合した。何か重大なことを話し合う時の、これが一家のしきたりであった。
話し合いは五分と続かず、口げんかが始まり、まもなく面罵の応酬になった。母親が泣いて止める声は鋭い詰問に変わり、長男の嫁の腕の中で赤ん坊が泣きだす。
隣室で息をひそめる別の一家の耳に、皿が割れる音と誰かが殴られる気配が伝わってきた。
彼らにとっては、それは記憶に残るまことに迷惑な一夜となったわけである。
ニイガタ一家の怒鳴り声は何度かの中断を挟み、そしてどういうわけか途中で酒が入ったらしく、罵り声はしだいに呂律があやしくなってきた。そして夜がふけるころ、「もう、兄やんの好きにせい」とついに四男が折れた。それに末っ子と兄二人が続いた。
明け方近く、いびきの大合唱の中で、ニイガタ家の父親と三男は、差し向かいであぐらをかいていた。
「――何度でも言うが。おやじとお母ちゃんは日本人だ。でも、俺はこの国 で生まれて、この国に育ててもらったんだ」
すぐ上の兄にぶたれて、青あざになったところをさすりながら、ケンゾウは言った。
「この国は悪くない。悪いのは今の政府だ。それを恨んで、自分の祖国のために何もせんのは筋に合わん。ここで何もしなかったら。俺ら日系二世 はこの先ずっと、本当の意味でこの国の人間になれん。一生、日陰者だ」
「そのために。お前は親子の縁を切ってまで行くのか?」
「……そいつは、いやだ。だから、昨日から頭を何度も下げてるんじゃないか」
そうつぶやいて、ケンゾウは床に頭をこすりつけた。
「おやじ。後生だから、行かせてくれ」
返事は、すぐにかえってこなかった。いい加減、疲れてきたケンゾウは、そのままうっかり寝そうになる。その時だった。
「――もう、いい。お前の好きにせい」
低い声でつぶやいた父親は、ごろりと床にあおむけになった。目を閉じる直前、父親はしかと息子の目を見据えた。
「そのかわり、中途半端なことはしいなや」
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