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第十章(⑥)
父親との約束を、ケンゾウ・ニイガタは忠実に守った。
帰米とはいえ両親との会話以外、日本語を使う機会が久しくなかったため、陸軍情報語学校に入学した当初は下位のクラスに入ったが、それでも一心不乱に勉強した結果、卒業する頃には一番上のクラスに食い込んだ。
卒業後の活躍は、クリアウォーターもすでによく知るところである。ニイガタが職務に傾ける情熱と使命感は、時として周囲の人間に敬遠される要因にならなくもなかったが、大抵の場合は、プラスの方向に働いた。
ニイガタは終戦後も軍服を脱ぐことなく、占領軍の一員として日本に残った。そして対敵諜報部隊 に配属されて、ダニエル・クリアウォーターの部下となったのである。
…ニイガタが退室した後、クリアウォーターは暗澹たる気分になった。
ニイガタの忠誠心を疑ったことは、今まで一度もない。
それでも、第三者の色眼鏡で見れば、彼には確かにアメリカ政府を恨む理由があるように見えるだろう。不当な逮捕をされて半年も拘留された上に、両親は財産を失い、家族全員が収容所送りとなった。
すべては、戦時下というヒステリックな空気の中で決定された、政府のあからさまな人種差別政策のせいで――これほどの仕打ちをされて、恨むなという方が無理だ。事実、収容された日系人の中にはアメリカに失望し、日本の勝利を密かに願う者も少なくなかったと聞く。
だが一方で、このもっとも困難な時期に、アメリカの軍服を着て、祖国の勝利に計り知れぬ貢献をした者たちがいたのもまがうことなき事実だった。
クリアウォーターは目を閉じ、組んだ両手を額に押し当てた。
諜報に携わる者は、疑うことが仕事のようなものだ。
だが、ほとんどの者が理解していないことがある。
諜報に携わる者は、信じることもまた仕事なのだ。
すべてを疑う者の行きつく先は、神経症的な疑心暗鬼の穴だ。その陥穽に嵌 まりこむことを、クリアウォーターはしたくなかった。
目を開け、カレンダーを見る。参謀第二部 のW将軍との約束からすでに五日。
残り二十三日以内に、果たして裏切り者を見つけ出せるか――。
――焦らぬことだ。
ナサニエル・グラン教授は、クリアウォーターたちを前に何度もその言葉を口にしていた。
「諸君らに求められているのは、現実を誇大視せず、過小評価もせず、可能な限り正確に見ることだ。そして、決して焦らぬことだ。焦慮は、勝算のない行動に諸君らを誘う。その結末はただひとつ――死だ」
クリアウォーターは二度、深呼吸した。それで、平静に近い思考を取り戻す。
落ち着いた手つきで机の引き出しを開け、クリアウォーターは隠していた資料を集めた。そしてファイルに入れ直すと、それを元のようにキャビネットにしまって鍵をかけた。
新たな動きがあったのは、その翌日のことであった。
昼過ぎ、U機関の一階の資料室にあって、滅多に鳴ることのない電話が鳴った。それを取ったのは偶然にも、資料を探していたカトウであった。
「もしもし」
「ああ。ダニエル・クリアウォーターはいるか?」
しゃがれた声で発せられた言葉には、奇妙な訛りがあった。おまけに「少佐」や「Sir」の敬称もつけずに、クリアウォーターをぞんざいに呼び捨てたときている。
カトウは眉をひそめた。
イタズラ電話か?ーーしかしU機関の一階にあるこの電話の番号は、GHQが発行している電話帳に載っていない。
どんな用件かを聞こうとするカトウの機先を制して、向こうが言った。
「『後退することなかれ 』からだ、と伝えればいい。早くしろ」
たまたまその時、サンダース中尉が資料室にやって来た。カトウはこれ幸いと、中尉を手招きした。
「どうした?」
「いえ、変な電話がかかってきまして」通話口を押さえ、カトウは答えた。
「『後退することなかれ』なんて、おかしな名前を名乗っています」
それを耳にした途端、サンダースの顔色がさっと変わった。
「…カトウ。電話を切らずに、そのままにしておいてくれ」
そう言うなり、資料室から早足で消えたかと思うと、ほどなくクリアウォーターを連れて戻って来た。クリアウォーターは、サンダースのように顔色こそ変えていなかったが、それでも少し驚いている風に見えた。
カトウは何も言わずに、赤毛の少佐に受話器を手渡した。受け取るなり、クリアウォーターは愛想のよい口調で、呪文にも似た奇妙な言葉を口にした。カトウの耳には、こう聞こえた。
「ホウノイモウギン!」
そのあとは、笑いながら普通に英語で話した。しかしカトウには、その笑みは「仮面」の方だと察せられた。緑色の眼の、ほんの微細な輝きの違い。今、クリアウォーターの瞳にあるのは、獲物を発見したライオンにも似た鋭い輝きだった。
「うん――うん、なるほど。私はかまわないよ。……え、人数? そうだね」
クリアウォーターは、かたわらにいる部下を見やった。
「――とりあえず、三人ということで。じゃあ」
そして電話を切った。
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