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第十章(⑦)

――日本の占領統治を一手に担うダグラス・マッカーサー元帥は、占領初期のわずかな時期をのぞくと、ずっと赤坂にあるアメリカ大使館を居所とさだめている。  昼間の電話から約六時間後、アメリカ大使館の建物からほんの数ブロック離れた場所に、クリアウォーターはいた。タクシーからたった今、降りたばかりである彼の右側にはサンダースが、そして左側にはカトウがひかえていた。ただし、顔見知りが三人を見たとしても、それと気づかなかっただろう。全員が平服を着ている上に、クリアウォーターは目立つ赤毛を鳶色のかつらで隠し、例の野暮ったい眼鏡をかけていた。 「『後退することなかれ(Don’t go backward)』という男は、ちょっと訳ありでね」  車中でクリアウォーターは、カトウにそう告げたが、サンダースの呆れた目つきを見れば、それはかなり控えめな表現であるように思われた。事実、サンダースは出発前に、通訳ではなく護衛としての役割を、カトウに言い渡していた。 「いつでも撃てるように、心の準備だけはしておいてくれ」  カトウはうなずいた。もとより、クリアウォーターに危険が迫れば、一瞬たりとも躊躇しない。四十五口径の拳銃を差したホルダーをつけ、その上からカトウには少し大きめのコートを羽織ってきていた。  今、三人の前にあるのは、取り立てて特徴のない鉄筋コンクリートのビルだった。数人の男が、入口付近でさりげなくたむろしている。その内の一人が、すっとクリアウォーターたちの方に近づいてきた。男は目礼すると、何も言わずにクリアウォーターたちの先頭に立って、ビルの中へ入って行った。  階段をのぼり、最初に通された部屋は思いのほか開放的で、クリアウォーターの執務室ほどの広さがあった。ただ、並べられた調度品には、統一感というものがまったく感じられない。クリアウォーターは美術品にさして詳しくないが、それでも日本の扇子に、朝鮮の象嵌(ぞうがん)細工、中国の青磁、それに東南アジアのどこかの地域の仏像といったものが、ほとんど雑然と配置されている。一歩間違えれば、俗悪なオリエンタリズムの典型的な表象と思われかねないが、これから会う人物のことを思い浮かべると、妙に似つかわしく思えてくるから不思議である。 「――お連れさま方は、こちらで待っていて下さい」  三人をこの部屋に導いた男に言われ、カトウは思わずクリアウォーターを見上げた。 「心配いらないよ」クリアウォーターは微笑んだ。 「でも今度、何かあったら。君の安全が確保できる方法で、守ってくれ」  そう言うと、案内人に連れられて、隣室へと姿を消した。  通された部屋も、先ほどの部屋と同様に多国籍の品々がそこかしこに置かれていた。部屋の中央には腰ほどの高さの円卓。そして、すっきりしたデザインの椅子が二脚。  その奥の方の椅子に、肉厚の男が腰を下ろしていた。年齢は五十を少し過ぎたくらいか。腹がせり出した姿は、目じりの垂れた細い目と相まって、どこか布袋に似ている。  男は入って来たクリアウォーターを認めると、にいっと笑いかけた。そして、 「――世界中、どんな町にも必ずあるCから始まる建物は、何だと思う?」  突然、英語で質問をぶつけてきた。クリアウォーターは「ふむ」と首を軽くかしげた。 「教会(church)かい?」 「いいや。中華料理屋(Chinese restaurant)だ」  その答えを聞いて、クリアウォーターは笑った。 「なるほど、違いない。私もオーストラリアにいた時、ひいきにしていた中華料理店があったよ。エビの入った焼きそばが、お気に入りでね」 「何なら、あとで食わせてやるよ。きれいなお姉ちゃんの給仕つきでな」  クリアウォーターは「それは楽しみ」と微笑み、姿勢を正した。 「――ホウノイモウギン(おひさしぶり)。『後退することなかれ(Don’t go backward)』ーー莫後退(モー・ホウドゥエイ)大人」

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