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第十章(⑧)

 その台詞を聞いた男――莫後退(モー・ホウドゥエイ)はケラケラと笑い声をあげた。 「大人(ダーレン)なんて呼び方はやめてくれ。俺は一介の華僑(かきょう)に過ぎん。まあ、座れ」  椅子を進められたクリアウォーターは、ごく自然な仕草で一礼して椅子に腰かけた。  (モー)は自ら茶壺(ディーポット)を傾け、いい香りの紅茶をクリアウォーターの茶杯に注いですすめた。 「変わりないか?」 「まあ、おかげさまで」 「お前のところの、あの足の悪い番犬は?」 「元気――と言いたいところだが…」 「死んだか」 「いいや。早とちりにしても、失礼だな。ちょっとケガをしただけだよ」 「なんだ。そりゃ残念だ。あいつがくたばったら喜ぶ奴が、こちらに少なくとも三人はいるんだが」 「おいおい。その件は、もう前の話し合いで決着がついただろう?」  クリアウォーターは呆れたように首を振った。 「君たちは、彼に今後一切手を出さない。そのかわり。勘違いに端を発するとはいえ、占領軍の軍人を拘束・監禁した罪を、こちらは不問にする。そういう取り決めだっただろう?」 「ああ、そういえばそうだったか」(モー)はとぼけた顔で、ぬけぬけとつぶやいた。 「で。どこのどいつが、あいつに傷を負わせたんだ?」 「それを聞いてどうするんだい?」 「俺の名義で、感謝状と菓子折りと届けたくてね。ついでに腕の立つ奴なら、ぜひ雇いたい」 「じゃあ、私が菓子折りだけもらって帰るよ。――庭の木から落ちそうになった仕事仲間を助けた時に、負傷したんだ」 「なんだ、つまらん」莫は舌打ちして、自分の茶杯の紅茶をあおった。クリアウォーターは苦笑し、自分も紅茶を一口すすった。  莫後退(モー・ホウドゥエイ)――「後退すること(なか)れ」という名を持つ男は、英語でそれを意味するDon’t go backwardという言葉をあだ名のようによく名乗ったーーは、十九世期末の香港に生を受けた。  広東語と官話(いわゆる標準中国語)、それに英語を流暢に話し、さらにフランス語やマレー語、それに日本語にも通じた語学の達人である。本人は「一介の華僑」などと謙遜しているが、その実さまざまな怪しげでうさんくさい品物を商っている商売人――というのが、表の顔だ。  裏の顔は、戦後の東京に拠点を置き、急速に勢力を広げた黒帮(ヘイパン)(マフィア)、「白蓮帮」の頭目である。  クリアウォーターが調査したところでは、莫後退は一九四一年まで香港にいたことが確認されている。その年に、香港は日本軍によって占領された。莫が自らの語るところでは、故郷を捨てて国民党の軍隊に身を投じ、中国の江南方面で日本軍と戦ったというが、定かではない。  確かなのは敗戦まもない一九四五年、東京に現れてまもなく、焼野原になった赤坂、新橋一帯の裏社会の顔役となり、ヤミ市をひそかに仕切るようになったということだ。  占領軍の軍人であるクリアウォーターが莫後退と面識を持つきっかけには、部下であるアイダが関わっている。日系二世のリチャード・ヒロユキ・アイダ准尉は、十代の多感な時期を東京で過ごした経歴を持ち、日本人と遜色のない日本語を話すことができた。そのため、クリアウォーターはアイダに変装をさせ、よく聞きこみ調査を行わせていたのである。  ところがある時、ヤミ市をかぎまわっていたアイダは、白蓮帮の構成員に敵対する日本人ヤクザのスパイと勘違いされ、白昼に拉致された。  ただし、本人はこの日の夕方には、クリアウォーターのもとに、けろりとした顔で戻ってきたが。  アイダを捕まえた後、白蓮帮の者たちが油断したことは、おそらく誰にも責められまい。  アイダは捕まった時、一人で、しかも足に不自由をかかえていた。さらに監禁された後、縛られていたのである。まさかその男が隠していた小刀で自分を縛る縄を切って、三人の見張り役の鼻骨を砕き、関節技で肩を外した上に殴って気絶させ、一人の足に銃弾を撃ち込んでスタコラ逃げ出すなんて、予想できるものではない。  白蓮帮が総出でアイダを血祭りに上げんと息巻く前に、クリアウォーターは事態の速やかな収拾を図った。その時に、白蓮帮の頭目である(モー)と直接、知遇を得たのである。 「――さてと。そろそろ本題だ」  莫は紅茶の茶杯を押しやると、円卓の上に紙を広げた。見たクリアウォーターは、「おや」とつぶやいた。それは日本人らしい男が描かれた絵。ソコワスキーに提供したフェルミ画伯作のあの似顔絵の印刷版であった。 「GHQは、こいつと他に二人、男を追っているんだろう? 今日、招いたのは他でもない。こいつらがどこの馬の骨かを、教えてやるよ」

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