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第十章(⑩)
クリアウォーターは冷めた紅茶を飲みほした。退出の時間だ。
「貴重な情報の提供、感謝するよ」
「なあに。…もちろん、ただとは言わんよな?」
「分かっている。謝礼の方は……」
クリアウォーターはそう言って、莫 の方を見やった。垂れた頬には、布袋のような福福しい笑みが浮かんでいる。だがその皮の下に潜む脂ぎった欲望までは、隠しきれてはいなかった。
「仲間が殺されたんだ。あんたらは、若海組を絶対に叩きつぶすだろう。それをいつやるのか教えてくれ」
意外な申し出だ。だが、クリアウォーターはすぐに莫の意図が分かった。
「……なるほどね。若海組が消えたあと、そこは主のいない真空地帯となる。それを白蓮帮がそっくり貰い受けるというわけか」
「ご名答。赤坂、新橋に、これで上野に有楽町が加わるわけだ」
莫は腹を突きだして、ケラケラと笑った。
「それだけのヤミ市を握れば、そこから生まれる金の一パーセントだけで、千人からの人間を養える」
「…そんな価値が、本当にあるかな」
クリアウォーターは懐疑的だった。
「ヤミ市は、焼野原に咲いたあだ花のようなものだ。いつまでも続くものじゃない。いずれ、この国 が復興した暁には、消え去る運命にあると思うが」
「なあに。花は枯れて朽ち果てたとしても、根っこはしぶとく残るもんさ」
莫の声は確信に満ちていた。
「あんたらアメリカ人は、いいことをしてくれた。爆弾を景気よく落としてくれたおかげで、この東京は至るところサラ地になった。一 から全部、やり直しだ。そういう時こそ、大きなチャンスが生まれるし、俺たちはそのチャンスを絶対につかむ。インドシナやシンガポールを見てみろ。一番金と力を持っているCから始まる集団は誰だ?――華人 だ」
クリアウォーターは苦笑した。莫の構想が読めた。
「君たちは、この東京に中華街 を作る気かい?」
「ああ。今の内に土地と人間を握る。俺はこれでも、日本人の根性を評価しているんだ。いずれ東京は昔みたいに繁栄した都会にもどるだろう。だが一皮むけば――経済の動脈は、俺たち華僑に握られているというしだいだ」
「正直な感想を言っていいかい?」
「どうぞ」
「狂人の夢だね」
聞いた莫は、怒るどころか、むしろクリアウォーターの評価が気に入ったようだった。
「はっ。どでかいことをする奴は、皆どっか狂っているもんだよ。俺は若い頃、一度だけ実物の孫中山(※中華民国建国の父、孫文のこと)に会ったが、あれほどの大ぼら吹きながら、世界中を駆けまわった男はいない。君子面 してとり澄まして座っているだけの奴に、天下は取れねえよ」
苦笑しながら、クリアウォーターは一理あるな、と思った。確かに莫 の構想は、実現の可能性などほとんどないしろものだ。だがこの二十年間の間に、世の中には起こるはずのないことが、いくつも起こったではないか。
たとえば、1925年のドイツにタイムスリップして、近い将来ナチス党が政権を取り、ヨーロッパを再び戦禍のるつぼにたたきこみ、何百万人ものユダヤ人を虐殺すると言ったらどうか。あるいは、1935年のワシントンに行き、日本の航空部隊がハワイのオアフ島を奇襲攻撃して、複数の戦艦が沈没させられることになると言ったら?――きっと、それらも「狂人の夢」と片づけられたに違いない。
何が起こるか分からない世界ーーだから、莫 の妄想じみた考えも、過程しだいでは実現するかもしれない。少なくとも、中国本土で毛沢東率いる共産党が、蒋介石の国民党に勝利するという話よりは、現実味があった。
クリアウォーターは肩をすくめた。
「私に連絡をつけてきたのは。若海組のつぶされる日時をリークして欲しかったから、というわけか」
「まあ、それが最大の理由だな。だが、それだけじゃあない」
莫は何気ない口調で、ギガトン級の爆弾発言を投げつけてきた。
「若海組をつぶす時に。奴らが持っている阿片がほかの連中にわたらないよう、根こそぎ処分して欲しいんだ」
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