148 / 264

第十章(⑪)

 (モー)の発言に、クリアウォーターは眉根ひとつ動かさず、軽く小首をかしげた。生来の演技力と長年にわたる訓練のたまものというべきだろう。驚愕を皮膚の下に押し込み、彼は尋ねた。 「興味ぶかいね。若海組の下っ端の構成員が、少額の麻薬を売りさばいてい逮捕されたことはあるが…」 「はっ。そいつらが裁いているのはせいぜいグラム単位だろう。俺がつかんだ情報じゃ、若海は少なくとも百キロの阿片を所有している。そいつを広州(香港の北に位置する港湾都市)に密輸する計画だ」  莫は口元をゆがめた。 「さすがに驚いただろう?」 「…少しね」 「だったら、もっと驚いた顔をしてくれよ。盛り上がらん。そもそも、どうして俺がそれをつかんだかって言えば――」 「若海組に、君の息のかかった人間がまぎれているから」 「……お見通しか。その通りだ。そいつはよりにもよって、輸送に必要な船を手配する役目をまかされた。だから、まず間違いない情報だ。お前が麻薬を取り締まっていることは、前から知っている。それに関しては、非常にいい仕事をしていることも――頼むから林則徐(※阿片取締りで功績を上げた清代中国の官僚)みたいに、徹底的に処分してくれ」  莫はひと息に言うと、立ち上がって部屋の片隅に立てかけていた短い杖を取り上げた。クリアウォーターの方に、それを差し出す。受け取るとずしりと重い。よく見れば、元々中が空洞だったところに、鉛が鋳込まれていた。  クリアウォーターはそこで、その棒が杖などでないことに気づいた。 「…これは、阿片を吸うためのパイプだね」 「ああ」 「あなたのか?」 「そうだ」  椅子に腰かけた莫は、一瞬遠くを見た。 「――若い頃、香港で中毒者になった。今のこの姿からは想像もつかんだろうが、その頃は何ものどを通らなくなって、がりがりに痩せたもんだ。そこから抜け出すのは生き地獄だったよ。それでも、生きて抜け出せただけまだ幸運だった。途中で耐えきれずに死んだ連中は数え切れないほどいた。その鉛のつまった棒きれは、その時の苦しみを忘れない戒めだ。そして――どんなに儲かるとしても、阿片だけは商わないという誓いの証だ」  莫はふうっと息を吐きだした。 「……最初にイギリス。それから日本。どちらも、俺たち中国人を阿片中毒者に仕立てて、たんまり儲けた。だが、それももういい加減に終わりにすべきだ。――若海組の阿片が広州に流れこめば、千人単位の中毒者を生む。ほかの誰かの手にわたっても、場所が違うだけで同じ結果を生むだろう。そうなる前に、ダニエル・クリアウォーター。麻薬を取り締まれるだけの権力を持っているお前の手で、何としても阻止して欲しいんだ」  莫はクリアウォーターを見据える。短く、しかし力強く、クリアウォーターはうなずいた。 「必ず処分すると、約束するよ」  クリアウォーターは、頭の中ですばやくこれから取るべき行動をデッサンした。  対敵諜報部隊(CIC)のソコワスキー少佐に連絡し、襲撃の実行犯たちを逮捕させる。さらに若海組も解体させる。だが、それより前に、彼らが所持するという阿片の密輸出の現場を取り押さえた方が得策だ。証拠品を押さえた上で、若海組の頭目である若海義竜を尋問すれば、その阿片をどういう経緯で手に入れたか、吐かせやすい……。  クリアウォーターがさらに考えをめぐらせようとした時、部屋の扉が勢いよくノックされた。莫の声に応じて入ってきたのは、先ほどクリアウォーターたちを案内した男であった。  男は莫のそばに駆け寄ると、その耳に小声で耳打ちした。聞き終えた莫の表情が急変する。そのまま、ゆっくりクリアウォーターの方を見やった。 「おい、お前のしわざじゃないよな。だとしたら、手が早すぎる」 「…何のことだい?」  演技でなく、クリアウォーターは尋ねた。  莫は首のうしろをかき、やがておもむろに言った。 「たった今、若海組に潜ませている部下から報せがあった。若海義竜が死んだ。それも、自然死じゃない。--殺されたそうだ」

ともだちにシェアしよう!