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第十章(⑫)

 あとから考えれば、莫後退(モー・ホウ・ドゥエイ)が根城とするビルから電話をかけ、対敵諜報部隊(CIC)のセルゲイ・ソコワスキー少佐を直接つかまえることができたのは奇跡に近いことだった。  電話してきた相手がクリアウォーターと知った途端、ソコワスキーはかみつくような声を出した。 「貴官は、いつも最悪のタイミングで俺の邪魔してくるな。嫌がらせか?」 「私にそのつもりはないが、結果的にそうなったのなら謝るよ」 「…三十秒で用件を言え。それより長くなるようなら、あとでかけ直せ」  いらだった声は、焦って緊張している証だ。  短気なソコワスキーの性格を知るクリアウォーターは、即座に返答した。 「ジープを襲撃した犯人たちを特定できた。若海組という上野、有楽町に勢力を張るヤクザの構成員で、その頭目の若海義竜(わかみよしたつ)がつい先ほど殺されたという情報まで入って来ている」  電話口から沈黙が返ってきた。 「ソコワスキー少佐?」 「…二時間前、俺のところにも同じ情報が入った」  ソコワスキーはうなるように言った。 「電話を受けた部下の話では、くぐもっていて男とも女とも分からん声だったらしい。おそらく、受話器にハンカチでも当てていたんだろう。そいつは、先ごろ米軍関係者を狙ったテロの実行犯は若海組というヤクザだと密告してきた。おまけに頭目が急死した今、組織が混乱状態にあるから、主な連中を逮捕するには絶好の機会とまで、わざわざ教えてきたらしい」  聞いたクリアウォーターは絶句した。  (モー)はクリアウォーターだけでなく、ソコワスキーにも情報を流したのか?  ーーいや、それはおかしい。  莫自身、若海義竜死亡の情報を知ったのはつい十分前のことだ。  二時間も前にソコワスキーの所に情報が届いていたのであれば、それを告げた人物は莫の部下より先に、若海の急死を知っていたことになる。   ーーしかし、一体誰が? 何の目的で?  事態は解決に向かうどころか、混迷を極め、謎はかえって深まるばかりに見えた。  だが、赤毛の下に隠されたクリアウォーターの脳は、冷静にやるべきことをはじきだした。  三人の実行犯と計画を立案した主犯の確保。同時に、若海義竜が所有するという百キロの阿片の押収。実行犯と主犯は確保した後、尋問して動機を突きとめねばならないし、阿片の方も出所を特定しなければならない。  さらに若海組が抵抗のかまえを見せるなら、武力による鎮圧という方法が取られる可能性があり、そうなれば死傷者が出るのは避けられない。そうなる前に、莫のひそませた密偵を引き揚げさせねばならない。人道的な観点からもだが、中枢近くに食い込んでいた密偵から得られる情報をみすみす失うのは、あまりに惜しいことだった。  クリアウォーターは、受話器を握りなおした。 「話がある。セルゲイ・ソコワスキー少佐」 「…貴官を俺の捜査に加える気はない」  ソコワスキーは冷たく言った。だが、今回ばかりはそこに微細な迷いの成分が混じっていることに、クリアウォーターは気づいた。 「セルゲイ」クリアウォーターは呼びかけた。 「先ほど伝えそこなったことがある。私が先刻入手した情報によれば、若海組は百キロの阿片を所有しているらしい。もしそれが本当で、阿片を押収しそこなったら、大勢の中毒患者を生み出すことになる。麻薬犯罪の根絶を、誰よりも願う君だ。そんな状況をみすみす見過ごすことはできないだろう?」 「……俺の弱い部分を攻めて、説き伏せる作戦か」 「ばれたか――でも、その通りだ」クリアウォーターはあっさり認めた。 「私は君の下につく。どんな命令でも従う。だが、まずは話を聞いてほしい」 「三十秒はとっくに過ぎているぞ」 「あいにく、私の腕時計は今ゼンマイが切れているんだ」  クリアウォーターはぬけぬけと言った。 「セルゲイ。この事件は私たちが反目し合っている限り、満足のいく結果は得られない。協力し合うことが不可欠だーー私が望んでいることは、君と同じだ。この事件の解決だよ」  電話口から返事が返ってくるまで、しばらく間があった。 「――舞鶴でやったライフル銃の摘発の時のこと、覚えているか」  ソコワスキーは唐突に切り出した。 「貴官は作戦を立案しただけでなく、わざわざ現場まで足を運んで俺たちに指図した」 「それが私のやり方なんだ。自分の目で見届けないと、気が済まない性分でね。なるべく邪魔にならないよう気をつけたが、それでも君が気分を害したことは気づいていたよ」 「その場にいた連中の大半は取り押さえたが、一人をあやうく取り逃がしかけた」  ソコワスキーはクリアウォーターの言葉を無視するように続けた。 「現場に残されたのは、割れたそいつの眼鏡だけ。俺たちは、やみくもに市中を捜索しようとしたが、貴官は違った。今でも覚えている。眼鏡を拾って、こう言ったんだ。『朝になるまでに、市内の眼鏡屋を調べてそこを見張れ』と」 「そんなこと、言ったかな」 「言ったーーそれも、にやにや笑いながら」ソコワスキーは鼻をならす。 「得意げで、この世のすべてを見透かしたようなその笑い方に、俺は心底むかついた! さらに腹立たしいことはなーー貴官の言った通りにしたら、のこのこ眼鏡屋に現れたそいつを、その場で取り押さえることができたことだ」  ソコワスキーの声に混じるいらだちが、いっそう濃くなる。 「改めて言うまでもないがーー俺は貴官が嫌いだ。昔、俺の『首から下』について言ったことだって、まだ許したわけじゃないし、そもそも同じ空気を吸っていると思うだけで、無性に腹が立ってくる。どう間違っても、絶対に、貴官とは友人にはなれん」 「………」クリアウォーターは黙って、耳をかたむけた。 ――私の方は、君がけっこう好きなんだけどね。  そう言いたかったが、火に油を注ぐ結果にしかならないので、口には出さなかった。  電話口から、ソコワスキーの声が聞こえる。 「ーー友人にはなれん。だが貴官が、俺たちがこれからやろうとしている仕事において、この上なく有用な人間なのは明らかだ」 「! それじゃあ…」 「もう十分近く時間をむだにした。これ以上は一秒だって、おろそかにしたくない。さっさと、俺のオフィスに来い。まずは貴官がつかんだ情報を、洗いざらい吐いてもらうからな!」  言うだけ言ったあとで、ガチャンと叩きつけるように電話は切れた。

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