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第十章(⑱)

「…ありがとう」  顔を離したクリアウォーターはうまそうに、煙草のけむりをくゆらせた。  その横顔を眺めるカトウの頭に、ふと昔のことがよぎった。イタリアの戦線にいた頃のことだ。もぐりこんだ塹壕の中で、同じやり方でミナモリに火を与えたことがあった。  カトウは富山で国民学校を出てまもなく、喫煙の悪習に染まった。酒はからきしだったが、煙草はひどい時には一日に二十本近く吸っていた。おかげで、日本でもアメリカでもたいていの銘柄は喫ったことがあるし、煙草にまつわる知識もむだに増えた。  ある時、そのことをミナモリに話した。ハワイ大学の医学生だった青年は、顔をしかめ、「…お前な。背が伸びなかったのは、それが原因だぞ」とカトウをたしなめた。カトウは「そうかもな」と応じた。  だが自分では、身長が伸びなかった最大の原因は、子どもの頃ろくなものが食べられなかったからだと確信している。事実、陸軍に入隊した後、以前より食生活の水準が大幅に上がったせいか、すでに成長期を過ぎていたにも関わらず、一年で三センチ背が伸びた。  カトウに若年喫煙の害を語ったミナモリであるが、彼自身、イタリアに上陸してからほどなく、煙草を喫いはじめた。しかし、それまで喫煙の経験がなかったカトウの友人は、煙草を手に入れたはいいが、マッチをポケットに入れ忘れるという失態をやらかした。  …塹壕の向こう側からは、迫撃砲弾が落ちる音が断続的に聞こえていた。  だが、カトウもミナモリも落ち着いている。戦地で一週間も過ごせば、砲弾が空を切る音を耳にするだけで、どれくらい距離から発射されたか、大体わかるようになるものだ。  カトウはつけたばかりの煙草を、隣に座るミナモリにくわえさせた。そしてミナモリの呼吸に合わせて息を吸い、自分のくわえた煙草に火を灯したのである。  その時、間近で見たミナモリの感心した顔は、いまだに忘れていなかった。  胸に湧いてきた、かすかな甘い想いとともに――。  その出来事を思い出したカトウは、急に煙草の味に、ほかのものが混じった気がした。  クリアウォーターの呼気――それを意識した途端、みるみる耳たぶまで真っ赤になった。間の悪いことに、クリアウォーターが振り向いて、まともに視線を合わせるはめになった。  ぎこちない沈黙の中で、二人はたがいを見つめ合った。 ――何か、言わないと……。  カトウは焦った。だが思いと裏腹に、頭は安物のエンジンのようにプスプスと白煙を上げるばかりで、いっこうに動き出さない。そして、まもなく機会は失われた。  砂利を踏む音がして、電話をかけに行ってきたサンダース中尉が戻って来たからだ。  クリアウォーターは煙草を指にはさみ、サンダースの方に顔を向けた。 「全員と連絡はついたかい?」 「はい。ご指示のとおり、明日――というより今日の昼十二時に集まるように言いました」  サンダースは一瞬、カトウを見やる。すぐに言葉を継ぐ。 「若海組の一件も、おおよその出来事を伝えました」 「分かった。ごくろうさま」  クリアウォーターは短くなった煙草をくわえ、最後の煙を吸って吐きだした。 「――それじゃあ。片づけが済んだら、一度、我々も引き上げよう」  そう言って、クリアウォーターは歩き出した。  カトウは何も言えないまま、その背中を見つめた。それから煙草を投げ捨て、のろのろと赤毛の上司の後を追った。

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