155 / 264
第十章(⑱)
「…ありがとう」
顔を離したクリアウォーターはうまそうに、煙草のけむりをくゆらせた。
その横顔を眺めるカトウの頭に、ふと昔のことがよぎった。イタリアの戦線にいた頃のことだ。もぐりこんだ塹壕の中で、同じやり方でミナモリに火を与えたことがあった。
カトウは富山で国民学校を出てまもなく、喫煙の悪習に染まった。酒はからきしだったが、煙草はひどい時には一日に二十本近く吸っていた。おかげで、日本でもアメリカでもたいていの銘柄は喫ったことがあるし、煙草にまつわる知識もむだに増えた。
ある時、そのことをミナモリに話した。ハワイ大学の医学生だった青年は、顔をしかめ、「…お前な。背が伸びなかったのは、それが原因だぞ」とカトウをたしなめた。カトウは「そうかもな」と応じた。
だが自分では、身長が伸びなかった最大の原因は、子どもの頃ろくなものが食べられなかったからだと確信している。事実、陸軍に入隊した後、以前より食生活の水準が大幅に上がったせいか、すでに成長期を過ぎていたにも関わらず、一年で三センチ背が伸びた。
カトウに若年喫煙の害を語ったミナモリであるが、彼自身、イタリアに上陸してからほどなく、煙草を喫いはじめた。しかし、それまで喫煙の経験がなかったカトウの友人は、煙草を手に入れたはいいが、マッチをポケットに入れ忘れるという失態をやらかした。
…塹壕の向こう側からは、迫撃砲弾が落ちる音が断続的に聞こえていた。
だが、カトウもミナモリも落ち着いている。戦地で一週間も過ごせば、砲弾が空を切る音を耳にするだけで、どれくらい距離から発射されたか、大体わかるようになるものだ。
カトウはつけたばかりの煙草を、隣に座るミナモリにくわえさせた。そしてミナモリの呼吸に合わせて息を吸い、自分のくわえた煙草に火を灯したのである。
その時、間近で見たミナモリの感心した顔は、いまだに忘れていなかった。
胸に湧いてきた、かすかな甘い想いとともに――。
その出来事を思い出したカトウは、急に煙草の味に、ほかのものが混じった気がした。
クリアウォーターの呼気――それを意識した途端、みるみる耳たぶまで真っ赤になった。間の悪いことに、クリアウォーターが振り向いて、まともに視線を合わせるはめになった。
ぎこちない沈黙の中で、二人はたがいを見つめ合った。
――何か、言わないと……。
カトウは焦った。だが思いと裏腹に、頭は安物のエンジンのようにプスプスと白煙を上げるばかりで、いっこうに動き出さない。そして、まもなく機会は失われた。
砂利を踏む音がして、電話をかけに行ってきたサンダース中尉が戻って来たからだ。
クリアウォーターは煙草を指にはさみ、サンダースの方に顔を向けた。
「全員と連絡はついたかい?」
「はい。ご指示のとおり、明日――というより今日の昼十二時に集まるように言いました」
サンダースは一瞬、カトウを見やる。すぐに言葉を継ぐ。
「若海組の一件も、おおよその出来事を伝えました」
「分かった。ごくろうさま」
クリアウォーターは短くなった煙草をくわえ、最後の煙を吸って吐きだした。
「――それじゃあ。片づけが済んだら、一度、我々も引き上げよう」
そう言って、クリアウォーターは歩き出した。
カトウは何も言えないまま、その背中を見つめた。それから煙草を投げ捨て、のろのろと赤毛の上司の後を追った。
ともだちにシェアしよう!