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第十一章(⑦)

……おそらく今朝方、一番落ち着いていなかったのはクリアウォーター自身だったろう。  ワナをしかけた張本人が、そこにかかる獲物の素顔を一番見たくなかった。  そんな気分の低調が、身体にも影響をおよぼしたらしい。いつもより遅く、お手伝いの西村邦子に起こされて、キッチンに降りていこうとした矢先、途中の階段であやうく足を踏み外しそうになった。この階段は以前にも一度、何かの拍子にすべって転げ落ちかけたことがある。その時は、邦子を大いに動転させたものだ。前回と同じく、数段落ちただけで済んで、たいした怪我に至らなかったのは、幸運と言うべきだろう。  食卓についた後も、パンに塗るジャムをすくったスプーンで、コーヒーをかき混ぜたり、玄関を出る時に自分の靴ではなく、昨日外出してそのままになっていた邦子のよそ行きの革靴を履きかけたりと、小さな失態を重ねた。待ち受ける憂鬱な結末を思うと、演技をする気もそがれてしまう……。  だからカトウがいつものように護衛としてやって来た時は、正直ほっとした。  U機関の誰かが確実に裏切り者だ。それでも――カトウでないことに、クリアウォーターは救いを感じた。  そのカトウは、クリアウォーターがうっかり邦子の靴を履こうとしたのを、慌てて止めた。 「……大丈夫ですか? 大分、お疲れのようですが」  迎えのジープの後部座席に並んで座った後、カトウの方から話しかけてきた。  切れ長の黒い瞳に、気づかわしげな色がにじんでいる。それを見たクリアウォーターの心が叫び出す。 ――今すぐ、抱え込んでいる難問のすべてを、カトウに打ち明けてしまいたい。  その誘惑を、理性がかろうじて押さえこむ。クリアウォーターは自分に言いきかせた。 ――笑うんだ。  見破られないために。心配をかけないために。  自分にはそれができるはずーーー。  だが、顔の筋肉を動かすより先に、カトウが珍しくさえぎった。 「無理しないでください」  弓の弧を描く眉が、かすかに憂いを形作る。 「無理をしてまで、笑わないでください」  そのひと言で、クリアウォーターの周囲から音がすっと遠のいた。 ――ああ……。  いくつもの感情が、胸にぽっかり空いた暗い穴を満たしていく。  クリアウォーターの腕が、動きかける。カトウの細い身体を求めて。  抱き寄せて、その存在に寄りかかりたくてたまらなかった。  けれどもそれは、許されないことだった。  ほかに気まずさを埋める方法が見つからない。  クリアウォーターの手元にある方法は、笑うことだけだ。いつものように笑って、偽って、平然を装うことだけだ。  だから、そうした。  カトウの憂いが深まったのが、クリアウォーターには手に取るように分かった。

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