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第十一章(⑧)
……今朝方の記憶を振り払い、クリアウォーターはソコワスキーに言った。
「ひょっとすると、裏切り者の方が一枚、うわ手だったかもしれない」
「…というと?」
「裏切り者の正体を知っていたのは、黒幕である若海義竜 ただ一人だったかもしれない」
その不吉な言葉は冬の遠雷のように、ソコワスキーの耳に低く響いた。
数日が経過した後、若海組の構成員、計八十五名の一通りの尋問が終わった。
クリアウォーターの予感は的中した。
拘束した構成員たちの口から、クリアウォーターの元にひそむ裏切り者についての情報は、何一つ出てこなかったのである。
それでも尋問と調査を進める間に、いくつかの事実が明らかになった。
まず司法解剖の結果、若海義竜の死は、出血多量による失血死と結論された。若海の後頭部側の首には鋭利な刃物による傷が残されていて、これが致命傷となったのだ。首を切り裂かれた時、血が勢いよく噴き出したはずだが、その多くは彼が寝ていた布団が吸い取ってしまったらしい。まだ処分されていなかった血まみれの布団を押収すると、彼が寝ていたあたりにおびただしい血液が残されていた。
そこから、若海は殺害された時、この布団の中にいたと推測された。おそらく就寝中だった。若海が昼食後から夕方にかけて仮眠を取る習慣があったことも、推測を補強する証拠に挙げられた。
連日の尋問の合間に、クリアウォーターは何度か、ソコワスキーと話をする機会を持った。
「……貴官の部下マックス・カジロ―・ササキ軍曹の通訳を通して尋問した若海組の構成員から、若海の死体が発見された時間を聞き出せた。午後八時過ぎだそうだ」
「莫後退 が若海組に潜入させていたスパイの証言と一致するね」
「ああ。ところが問題がここで発生する。同じ日に、俺の部下が若海が死んだという密告の電話を受け取ったが、それは午後七時頃――死体が発見されて、騒ぎになる一時間も前だ」
「問題は、密告の電話をかけた人間がどうやって若海の死を知ったかだね」
「貴官は、どう考える?」
「多分、君と同じだよ」クリアウォーターは言った。
「君の元に電話をかけてきた密告者こそ、若海義竜を殺した張本人だったんだ」
「……やはり、そうなるか」
「現状では、それだけが矛盾なく事態を説明できる。裏切り者の正体を知っていたのは、若海ただ一人だった。若海が生きた状態で私や君の手に落ちたら、裏切り者も一蓮托生だ。だから、口を封じるために彼を殺した」
「そのあとで、わざわざ俺のところに密告してきたのは…奴にとって、若海組がもう用済みとなったからか?」
「おそらく。頭目が殺されたとなれば、若海組の構成員たちは犯人を血眼になって探す。裏切り者は痕跡を消すのに長けているようだが、それでも執念深い調査の末に探し出されて復讐される可能性はゼロじゃない」
「それを未然に防ぐために、俺たちを使って若海組を潰 させたわけか」
「そう。でも殺人者は、ここでミスをひとつ犯した。若海組の構成員を装って電話すれば、事足りると思ったんだろうが――彼が予想したより、死体の発見はずっと遅れてしまった」
「おかげで若海が七時の時点で殺されていたことが確定した。若海が組の人間に最後に目撃されたのは午後三時頃。そのあと七時までの四時間の間に、奴は首を掻き切られたというわけだ」
「そういうことになる」
クリアウォーターはうなずき、ソコワスキーの前に用意してきた紙を差し出した。そこには、若海が殺害された日、U機関のメンバーがどこで何をしていたかが現時点で分かる範囲で記されていた。
「――午後三時から五時まで、全員がU機関内で仕事をしていた。退勤時間が来たあと、私とサンダースは七時の時点まで一緒にいた。カトウは一度、自分の寮に戻ったが、その時、寮の管理人に夕食がいらないことを告げている。管理人本人から、裏づけが取れた。それが午後五時半ごろのことだ。その後、六時頃に彼は私の邸にやって来た。木挽町に行って、若海を殺すことは、サンダースとカトウには無理だ」
「…だろうな。ほかのメンツは?」
「退勤後、ニイガタとササキは連れ立って飲みに出かけた。新宿に彼らがよく行く店があって、そこに六時頃から八時過ぎまでいたことが分かった。新宿と木挽町の距離を考えると、この二人も時間的に見て犯行は無理だ。入院中のヤコブソンは、当日午後四時に入院先の病院の病室で検温を受けている。そして六時には夕食を食べていた。彼もシロだ」
クリアウォーターは紙に書かれた名前にチェックを入れていく。
残されたのは……。
「犯行が行われたと考えられる時間に、アリバイの裏づけがまだ取れていないのはこの二人ーーアイダ准尉とフェルミ伍長だ」
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