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第十一章(⑨)

 フェルミは絵を描く参考にするために、時間を作っては「日本人の観察」をするのが趣味だった。占領軍人たちが利用する通勤バスを途中下車し、徒歩で風物や道行く人を眺めながら自分の寮に帰ることもよくある。とはいえ奇癖と顔面の傷のせいで、道行く日本人にしばしば誤解され、通報されたことも一、二度ではなかったが……。  そういう目立つ男は、人の記憶には非常に残りやすいはずである。だが事件の起こった日、通勤バスを途中で降りた後の彼の足取りは、降車と同時にふつりと途絶える。目撃した同乗者によれば、フェルミが降りた場所は若海の屋敷がある木挽町から三十間堀川を挟んで隣接する銀座で、銀座のシンボルでもある時計をいただくPX(ペックス)(占領軍人のために様々なものを売る商店)の付近だったという。時刻は、午後六時頃だ。  一方、もっと奇妙なのはアイダだった。  アイダはカトウより少し早く、寮である曙ビルチングに戻ったが、こちらは朝の内に管理人に夕食がいらないことを伝えていた。帰宅する姿を管理人がちらりと見たものの、アイダはほどなく出かけて行ったという。再び寮に帰ってきたのは、夜の十二時近く。アイダ以外の人間は、すでにカトウを除いて全員もどってきていた。 「会田(アイダ)さんは時々、こういうことがあるんですよ」  若かりし日に日本帝国海軍の炊事兵であった管理人の杉原翁は、そんなふうに証言した。老いても軍人と言うべきか。聞きこみに行ったソコワスキーの部下であるアカマツが、「占領軍人の関与が疑われる犯罪を調査している」と話すと、その場で他言無用を約束してくれた。 「ふらりとおひとりで出かけていって、夜遅くに戻って来られる。でも、きちんとした方ですから、そういう時は必ず夕食はいらないと朝の内にお断りを入れてくれます」  なかなか気の利くアカマツは、ついでとばかりに曙ビルチングに住んでいるクリアウォーターの部下三人について杉原に印象を聞いた。 「そうですね…。会田さんはここじゃ年長者ですから、やはり落ち着いていらっしゃいますね。佐々木(ササキ)さんは、明るくて好青年ですよ。加藤(カトウ)さんは物静かであまりしゃべらん人ですが、こちらに気づくと会釈してくれます。そういうところは、三人の中で一番日本人らしい方ですね」 「日本人らしい、とは?」 「そうですね。はっきり言葉にしようとすると難しいですが……ほら。あなたなど、顔は私らと同じですけど、ちょっと立ち話をすれば、すぐに佐々木さんと同じハワイ育ちの人と分かりますよ」  その通りだったので、アカマツは少し驚いた。 「しゃべり方とか立ち振る舞いは、やっぱりお国が出るもんです。真似しようとしても、一朝一夕に身につくもんじゃないですしね」 「なるほど」 「おそらくそちらの方が詳しいでしょうが。加藤さんは子ども時代を富山で過ごされたそうで。子どもの時に身についた所作というのは、中々抜けないもんですから」 「『三つ子の魂百まで』ですか」  得意げに言うアカマツに、杉原はお世辞半分で「よくご存知で」と返す。 「とはいえ、会田さんの日本語も、はたから聞いている分には、日本人じゃないと気づかないくらい見事ですよ。あの方も昔、東京で何年かお過ごしになったと言いますから」  他に印象に残っていることがないかと、アカマツがなお聞くと、杉原はややあって、 「足音、ですかね」と答えた。 「佐々木さんは、お帰りになったらすぐに分かるんです。とにかくにぎやかな方で、あの人が廊下を歩くとドタドタという音が、厨房にいても聞こえてきますから。加藤さんは静かですけど、それでも多少は気配がします。でも会田さんは――音がしないんですよ」  杉原はその時のことを思い出そうとするように、あごに手をやった。 「廊下を歩かれる時も、階段を上る時も全然、音を立てずに歩くんです。うちは土足禁止で、土間で靴を脱いでもらうんですが、あれだけ静かだとね…。気づかない内に後ろに立っておられたりするので、時々驚きますよ。あの人はほら、片足が不自由で引きづっておられるので。余計に不思議に思いますね」

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