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第十一章(⑫)

「あたしはかつて満洲国の首都、新京(しんきょう)におりましてね」  文谷の話す日本語には、いまだ外地独特のなまりが少し残っていた。 「今は元の長春という名で呼ばれている城市です。若海さんとは、そこで知り合いになりました。驚くでしょうが、あの人は昔、軍服を着ていたんですよ」 「軍服?」 「ええ。関東軍の軍服。ヤクザの親分の姿からは、ちょっと信じられないでしょう?」  カトウの通訳を通じて文谷の言葉を聞いたクリアウォーターは、興味深そうに相づちを打った。興味はあったが、「信じがたい」というほどでもない。戦中、軍服を着て「お国のために」と声高に叫んでいた軍人が、敗戦を知るや、またたく間にそれを脱ぎ捨てて火事場泥棒に変じた例を、クリアウォーターは少なからず知っていた。 「若海は関東軍の軍人だったのか?」 「軍人というより工作員といった方が正確ですかね」 「…間諜(スパイ)か」 「ええ」  クリアウォーターはすでに、日本警察に若海に関する情報を照会していた。しかし判明したのは、若海が一九四五年九月にはすでに日本にいたこと、ほどなく若海組を立ち上げ、裏社会屈指のヤクザ集団にのし上がったというだけだった。 ーー若海義竜の過去には、奇妙な断絶があり、ある時点より前は黒い霧に覆われている。  それが、クリアウォーターの受けた印象だった。 「若海義竜という名前は、どうにも偽名くさい。君は、本名を知っているか?」  この男ならば、知っているかもしれないーークリアウォーターは期待したが、文谷はゆるゆると首を横に振った。 「あの人の本名は、ついぞ聞いたことがないんです。あたしは新京で『山桜』っていう日本料理屋をやっていましてね。元々は父親がはじめた店だったけど、お上や軍にも、ごひいきにしてくれる方が少なからずおりました。若海さんもそのひとりだったんです」 「ほう」 「最初から、少し他の人とは違うなとは思っていました。あの人はいつも一人で来て、一人で酒を飲んでいた。軍服を着ていても、他の方とはついぞ交わらなかったんです」 「たしかに、変わっているな」  クリアウォーターは相づちを打ち、次の質問を発するために口を開きかける。  その直前、文谷が思わぬことを言った。 「若海さんの本名は知りませんが。あの人は、その頃に『ナビキ』という名前で呼ばれていたそうですよ」 「ナビキ…?」 「はい。季節の『夏』に、引き算の『引』と書いて、ナビキと読むそうです。それを聞いたのは、あの人が珍しく平服でいらした時でした。しかもたった今、長旅からお帰りになったというような、くたびれた感じで。その時したこまに酔って、つい口をすべらしたという感じでしたーーー」  「俺は『ナビキ』と呼ばれているんだ」  「ナビキ、ですか?」  「おやじさん、『南総里見八犬伝』は読んだことあるかい? 曲亭馬琴の」  「いいえ。不勉強なもので…」  「ナビキってのは、八犬伝に出てくる悪女の名前さ。若い男と一緒になりたくて自分の旦那  を殺した女だ」  「恐ろしゅうございますね」  「同感だ。旦那を殺すような女は、まったく恐ろしい」  「それもありますが。人殺しはいやなものですよ。たとえ小説でも」   若海はそれを聞いて、口に運びかけたお猪口を下ろした。それから、ぼそりと言った。  「…そいつは、悪いことをしたな」  「え? 何かございましたか」  「いや、なに。実は今朝方、二人ほど殺した帰りで、今ここに座っているんだ――」 「まるで、カストリ雑誌にでも出て来そうな話でしょう?」  文谷はその時のことを思い出すように、少し目を細めた。 「でも、あれは本当の話をしていたと、あたしは今でも確信しています。もちろん、あたしは他の人にその話はしませんでした。そのあとも、若海さん――あたしは心の中で、こっそり『ナビキさん』と呼んでおりましたが、『山桜』に何度か顔を見せてくれましたよ。そうやって、親しくさせていただいていたおかげでしょうね。敗戦が近づいて、いよいよこれは逃げ出さにゃならんと家族と話していたところに、若海さんがひょっこりやって来たんですよ。『明日中に店をたためるなら、大連まで一緒に連れて行ってやる』と――あたしは、その話に乗りました。人生一度の大博打ですよ。そして、その決断は正しかった。ソ連軍が国境を越えて満洲になだれ込んできた報せを聞いたのは、大連の宿に家族と落着いて、ほんの二日後のことでしたよ」  文谷はひと呼吸おいて言った。 「ちょうど、その夜でしたね。若海さんに、人手が足りないから荷物を運ぶのを手伝ってくれと言われたのは」

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