169 / 264
第十一章(⑭)
「いえね。少し前に、若海さんが夜遅くに一人で私の店にいらしたことがあったんです。もう看板の時間でしたが、もちろんお上げしました。私たち家族や店の様子をお聞きになって四方山話をした後、話のはずみでどちらにお出かけになったか聞いたんです。そしたら――」
「ーーなに、ちょっと昔、同学だった同級生に会って来たんだ」
「おや、それはよかった。旧いご友人となら、さぞ積もる話もあったでしょうね」
若海はそれを聞いて、口元をゆがめた。
「友だちじゃあない。そんなんじゃないんだ」
「え?」
「そうだな。敢えて言うなら、競争相手だ。座学、実技、それに学校の外での悪い遊び。
嫌味なやつでな。どれ一つとっても、俺は勝つことはできなかった」
若海はそう言ってグラスを傾けた。路上に売られているカストリ酒とは違う、本物のウイ
スキーだ。若海自身が文谷に与えた洋酒の一本で、本当なら目の飛び出るような値段がつ
く。若海がどういう経緯でこれを手に入れたか、なぜそんな金を持っているか、文谷は聞
かない。余計なことを尋ねず、自らのことは聞かれなければ話さない。
この初老の男のそういうところを、若海は一番気に入っているようだった。
グラスを干して、若海は低い忍び笑いをもらした。
「そいつも俺と同じさ。おかしな名前で呼ばれていた。俺が『ナビキ』で、あいつが――」
……文谷はそこまで話して、ふいに困ったように首をかしげた。
「同級生の方の名前も、例の馬琴の『八犬伝』から取ったという話は憶えているんですが…」
文谷がカトウの方を見た。
「ちょっと、すみませんが。東京の地名を言ってくれませんか?」
「は?」
「いえね。その思い出せない名前を聞いた時に、何だか東京の地名に似ていると思ったのは、覚えているんですよ」
クリアウォーターがうなずいたので、カトウは仕方なく思いつくままに言った。
「…荻窪、宮城前、丸の内、有楽町、巣鴨……」
「ちがいます」
「神保町、上野、日比谷、銀座、新橋……」
「ちがう、ちがう」
「新宿、青山、麻布、渋谷、代々木……」
「あ、それだ」文谷がぽんと手を打った。
「代々木 。そうですよ、同級生の方の名前は――」
文谷は言った。
「『ヨロギ』というんです」
ともだちにシェアしよう!