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第十一章(⑮)

 その十分後、クリアウォーターは休憩と称して尋問を中断した。壁際のMPを呼んで、文谷徳治(ふみたにとくじ)を待機部屋へ連れて行くよう命じる。  彼らの姿が部屋の外へ消えた後、カトウは全身の緊張を解いて椅子の背にもたれかかった。  そのかたわらで、クリアウォーターもまたゆっくり息を吐きだす。端正な横顔からは、先ほどまでの余裕は消え失せ、いつもの精彩ささえ、なりをひそめていた。 ――少佐。大分お疲れの様子だ。  連日続く尋問の通訳で、カトウ自身、疲労がたまりはじめている。加えて、今しがた文谷から聞かされた話に受けた衝撃は、何日分の疲労に匹敵した。  カトウは軽く目を閉じ、記憶を呼び起こした。巣鴨プリズンで、元日本軍の情報将校である甲本貴助(こうもときすけ)をクリアウォーターが尋問した時に、耳にした話ーー。 ――『ヨロギ』といえば。クリアウォーター少佐が麻薬調査のために雇った貝原靖(かいばらやすし)という男を殺したやつじゃないか。  さらにそれ以前にも、『ヨロギ』はオーストラリアのブリスベンで二人のアメリカ軍人を殺害している。死を覚悟の上で、敵中から情報を発信し続けた旧日本軍のスパイ――その『ヨロギ』が、クリアウォーターやカトウたちの乗ったジープを襲撃した若海組の頭目、若海義竜とつながっていた……? 「……貝原靖は『ヨロギ』に殺された」  カトウは椅子から立ち上がり、思いつくままにつぶやいた。 「だとしたら、貝原殺害を企てたのは、若海だったんじゃないですか? 若海は増田豊吉(ますだとよきち)が横領した阿片を、大連から運び出す手伝いをした。その報酬として、岩下拓男(いわしたたくお)のように増田から阿片を与えられたんじゃないですか。情報屋の貝原は関東地方に出回る麻薬の出所をつかみ、それが若海組から流れていると知った。だけど嗅ぎまわっていることを若海義竜に気づかれて……」 「…カトウ軍曹」  呼びかけられて、カトウは我にかえった。  クリアウォーターが、疲労のにじむ顔をこちらに向けている。子どもを諭すように、赤毛の少佐はかすかに微笑んだ。そして、人差し指を自分の口に当て、「シーッ」と言った。 「繰り返すまでもないが、尋問時に耳にした話は他言無用で頼みたい」 「あ……」  冷や水を浴びせられた気分だった。聞きかじった話で、勝手な推測をあれこれしている。クリアウォーターからしたら、失笑もいいところだろう。 「…すみません」  カトウは赤面して黙り込んだ。  クリアウォーターが、何も言わないままじっと見つめてくる。カトウにとっては、何とも居心地の悪い時間だった。もしここにタコツボ穴があったなら、そこで縮こまって一日、隠れてやり過ごしたいくらいだった。  と、無言だったクリアウォーターが、不意に椅子から立ち上がった。そして、そのままカトウに向かって両手を伸ばした。  「あっ」と思った時には、カトウは抱きすくめられて、クリアウォーターの腕の中にいた。  頬が、厚い胸元に押しつけられる。最初にかすかな汗の匂いを、それからなつかしい温もりをカトウは感じた。その瞬間、呼吸困難になるくらいの陶酔が、胸を満たしていくのが分かった。  MPはいつ戻って来てもおかしくない。あるいは、他の人間がやって来るかもしれない。  それでも、カトウは自分から腕を振りほどこうとは、これっぽっちも思わなかった。理性以外の何かが、ちっぽけな頭の中を渦巻いて、思考を奪い、麻痺させていく。これと似た感覚を前に何十回と味わったことがあるーーー。 ーーキスしたい。キスして欲しい。  カトウは両腕を動かして、クリアウォーターの背中に回そうとした。   まさにその時、クリアウォーターがはじかれたように、両腕を下ろし、カトウから離れた。  それから自分の行いが信じられないというように、壁際に後ずさった。

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