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第十一章(⑯)

「…すまない」  かすれた声が、カトウの鼓膜を打った。クリアウォーターはそれ以上なにも言わずにカトウに背を向けると、そのまま部屋から出て行った。その後ろ姿を、カトウは呆然と見送る。  クリアウォーターとの間の溝を埋めるまたとない機会を逃したーーそのことに気づいたのは、しばらく経ったあとだった。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー  クリアウォーターはソコワスキーの執務室のドアをノックすると、相手の返事も待たずにドアを開けた。ソコワスキーはそのぶしつけな態度に、文句を言いかける。だが、クリアウォーターの異常に気づいて、寸前でそれを呑み込んだ。 「…どうした。顔色が真っ青だぞ」 「報告したいことがある。でも、その前に水を一杯、もらえないかい?」  クリアウォーターの声は、まだ平静さを保っていた。だが、それは自制と長年磨いてきた演技のたまものだ。  そのことに、ソコワスキーもおぼろげながら気づいた。立ち上がると、使っていないガラスコップに水を注ぎ、クリアウォーターの前に差し出した。  飲みほしたクリアウォーターは、ソファに身体を沈めると、文谷徳治(ふみたにとくじ)から聴取した話をソコワスキーに聞かせた。聞き終えて、ソコワスキーは興奮した様子で言った。 「やったじゃないか。これで若海と増田のつながりがはっきりした。それだけじゃない。増田を殺した『ヨロギ』と若海がつながっていたとなれば……」 「…君は、どう考える?」 「欲張りな子どもの前に、アップルパイを置くのと同じ理屈だ。パイを独り占めするには、それに群がる他の連中を殴って、黙らせればいい――若海は、阿片のつまったパイを独り占めするために、知り合いだった『ヨロギ』を使って、増田を永久に黙らせたんじゃないか?」 「…私も同意見だ」クリアウォーターは賛意を示した。 「『ヨロギ』は、情報屋の貝原靖も殺害している。貝原は私の依頼を受けて、関東地方に流通する麻薬の出所を調査していた。私は当初、貝原が調査の過程で裏切り者に関する情報をつかんだせいで、『ヨロギ』に殺害されたと考えていたが……」  先々週の日曜日、自宅近くの教会でサンダースと交わした会話を、クリアウォーターは思い出す。その後、半日かけて貝原の遺品を調査したが、結局、手がかりになるようなものは何も見つからなかった。 「若海が大量の阿片を保有していて、しかも『ヨロギ』とつながっていることが判明した現状から推測するに――麻薬の出所を嗅ぎまわる貝原に気づいた若海が、『ヨロギ』を使って殺害させた可能性がでてきた」 「むしろ、そう考える以外にないんじゃないのか? 若海は部下を使って、貴官を爆弾で吹き飛ばそうとしたんだ。自分の周辺を嗅ぎまわる邪魔者(貝原)を殺したはいいが、飼い主(クリアウォーター)がまだ残っている。貴官に手錠をかけられるのを防ぐために、若海は先手を打った――そう考えれば筋が通る」 「そうだね…」  クリアウォーターは空のコップを見つめた。 「…もしも若海が生きていれば当然、『ヨロギ』に関する情報も引き出すことができた」 「だろうな」 「U機関にひそむ裏切り者の正体も」 「? ああ…」 「でも若海は、正体が露見することを恐れた裏切り者に殺された――」 クリアウォーターはつぶやく。 「」  そのひと言で、ソコワスキーの顔が強ばった。 「………おい。まさか、そんなことって――」 「うん。普通ならありえない確率だと私も思う。でも可能性はゼロじゃない――」  クリアウォーターは深々と息を吐きだし、そして言った。 「U機関にひそむ裏切り者こそ、『ヨロギ』本人かもしれない」

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