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第十二章(②)
前もって言った通り、クリアウォーターは定時の五時半を迎える前に、帰り支度を整えてサンダースの前に現れた。サンダースもすぐに支度を済ませる。
二階にある翻訳業務室をのぞくと、アイダとササキがまだ残っていたが、ニイガタとカトウはすでに帰ったとのことだった。
カトウに会えなかったことに、クリアウォーターは自分でも分かるくらいに落胆した。サンダースはそのことに気づいたようだが、口に出しては何も言わなかった。
例によって、サンダースが護衛役となって、ジープでクリアウォーターを自宅まで送りとどけてくれた。クリアウォーターは仲直りの印になればと、車中で副官を夕食に誘ったが、サンダースはあっさり断った。
「あいにく。今週末こそ、本当の意味でプライベート・タイムが必要ですから」
「おや。女性関係かい?」
「親族関係ですよ」
サンダースは生真面目に答えた。
「両親と、父方の祖母と、母方の祖母から手紙が来ておりまして。いい加減に返事を書いておかないと、クリスマスカードをもらえなくなりますから」
「それは、重要だ」
クリアウォーターは重々しい口調で言った。彼自身の場合、今年カードを送ってくれそうな血縁者は姉ひとりだけである。両親から受け取ったカードの最新の日付は、真珠湾攻撃の前の年で止まったままだった。
邸に戻って着がえたクリアウォーターは、すぐに居間に降りてきた。隣りのキッチンでは、お手伝いの西村邦子が夕食の仕度にかかりきりになっている。
壁にかけられたカレンダーの日付を、クリアウォーターは改めて眺めた。
今日は四月十八日金曜日。襲撃事件からすでに十六日が経過した。W将軍との約束の期日まで、あと二週間を切っている。
だが現時点で、容疑者も二人に絞り込まれていた。
若海義竜が殺害されたと考えられる時間帯に、アリバイが確認できていない二人――リチャード・ヒロユキ・アイダ准尉とトノーニ・ジュゼベ・ルシアーノ・フェルミ伍長の二人だ。
ーー奇妙な偶然と言うべきかな。
クリアウォーターがこの二人と知遇を得たのは、戦中、連合軍翻訳通訳部 所属の大尉だった時期だ。そして『ヨロギ』によって二人のアメリカ軍人が殺害された一九四四年一月、奇しくも二人はそろってブリスベンにいた。
――U機関にひそむ裏切り者は、『ヨロギ』なのか……。
その仮説について、結論はまだ出ていない。クリアウォーターがソコワスキーに言った通り、偶然だとすればそれこそ奇跡と言っていい確率だ。証拠もない現状では、ほとんど妄想に近い仮説である。
それをあれこれ考えるより、優先すべき仕事がある。
若海殺害の犯行時刻、アイダとフェルミがそれぞれ、どこにいたかを確認することだ。
ーーもしアリバイが証明できれば、容疑者から外すことができる……。
クリアウォーターの思考は「だんなさま」という呼びかけで中断された。
いつの間にか横に来ていた邦子が、気づかわしげな目を赤毛の雇い主に向けていた。
「どうされたんです? ぼんやりなさって。食事のしたくができましたよ」
「ああ、すまないね。ちょっと考え事をしていて」
「あら……家にいる時くらい、お仕事のことから離れた方がよろしゅうございますよ」
それは、もっともな言葉であった。
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