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第十二章(③)
メバルの煮つけ。きんぴらごぼう。アシタバの白胡麻和え。アサリのお吸い物に白ご飯。
いつもながら邦子の料理の腕前は、感嘆するレベルだった。それだけにクリアウォーターは、食卓の前に座っているのが自分ひとりであることに、何とももったいない気がした。
邦子にも、クリアウォーターの気分が伝染したのか。雇い主の前にお茶の入った湯呑みを置いた時、空いた椅子をちらりと見て、かすかに寂しげな表情を浮かべた。
「加藤さん。あれから一度も、いらっしゃいませんね」
クリアウォーターの箸が、一瞬空中で静止する。だが、すぐ何もなかったように、吸い物からアサリの貝殻をつまんで、そばにあった小鉢に入れた。貝殻同士がぶつかって、カチャっというささやかな音を立てる。
「カトウのことが気になるのかい?」
その言葉に、邦子はびっくりしたようにクリアウォーターを見つめた。
ややあって、
「……ええ。わたくし、あの方のことが結構、気に入っていますから」
茶目っ気の混じった声で、邦子は答えた。
「兵隊さんなのに、偉ぶったところが少しもなくて、とても礼儀正しい方でしょう。それに、今どき珍しいくらい恥ずかしがり屋の、はにかみ屋さんで、何だか可愛らしく思えてきますわ。よくよく見れば、古風な感じの美男子ですし」
「邦子さん、男を見る目があるよ」
「あら、ありがとうございます。でも、あの方って、だんなさまの……」
邦子は意味ありげな目で、クリアウォーターを見やる。しかし、クリアウォーターは笑っただけで、何も言わなかった。その沈黙で、彼女はすぐに自分の非を悟った。
「……すみません。差し出がましいことを申しました」
ぺこりと謝ると、そのままお茶を淹れ直すと言ってキッチンの方へ姿を消した。
食事を終えたクリアウォーターはすぐに二階へ向かわず、小図書室へ足を向けた。最初は気晴らしに小説でも読もうかと思ったが、十分も経たない内に目が字を追うばかりで、内容が頭に入ってこないことに気づく。
本を放り出し、クリアウォーターは気だるげにソファに横になった。
「……つかれたな」
肉体的な疲労以上に、精神的にずっと緊張状態にあることがこたえた。かつて「卒業試験」のために、ドイツの首都ベルリンにひとりで潜入した時だって、これほどストレスを感じなかったと思う。疲労を少しでも和らげようと、クリアウォーターは目を閉じた。
真っ先に、まぶたの裏に痩せて小柄な日系二世の姿が浮かんだ。
――ジョージ・アキラ・カトウ。
クリアウォーターの口元が、自嘲気にゆがんだ。
一方的に想いを寄せているだけの、恋人とすら呼べない相手。いい加減に諦めろと、クリアウォーターは自分に言い聞かせる。
かつてカール・ニースケンス中佐と別れた直後も、同じような倦怠感に襲われた。
年上で、包容力があり、人生経験に裏打ちされたウィットに富んだニースケンス。彼と身体を重ねてほどなく、関係を長く続けたいとクリアウォーターは望むようになった。結局、それはかなわなかった。
破局にいたる直前の日々、ニースケンスが時々見せるさりげないサインに、クリアウォーターは気づかないわけにいかなかった。ニースケンスの口から「別れて欲しい」と言い渡された時、クリアウォーターは自分で思っていたほど衝撃は受けなかった。胸に湧いてきたのは、「やはり」という思い。それから深い悲しみだけだった。
誰かと関係を持つのは、それほど難しいことではない。簡単にいかないのは、持った関係を続けていくことの方だ。たいていの男はクリアウォーターと違って、周囲から同性愛者と疑われることにひどく敏感であり、時には、生まれ持った自分の性癖に底なしの自己嫌悪を抱いていた。
――これは、やっぱり不自然で罪深いことだ。もう、これきりにしよう――
――同性愛者じゃないかと、疑われているんだ。だからもう、きみとは逢わない――
――婚約したんだ。女性と――
自分の元から去って行く者たちを、クリアウォーターは引きとめなかった。それが彼なりの意地だった。
そう、今までは――。
年齢も関係しているのかもしれない。二十代の頃は、意地を通してこれた。だが、三十歳の誕生日の夜をベッドで一人迎えた時、焦慮に近い感情と耐えがたい寂寞を覚えた。そして眠りに落ちるまでの悶々とした時間の中で、胸の内側を切実な欲求が焦がしつけた。
――誰かと人生を分かち合いたい、と。
……クリアウォーターは、ソファから起き上がった。寂しさが、自分を間違った行動に駆り立てようとしている自覚があった。
ーー間違いなく、余計に嫌われるな。
それでも、このまま二階の寝室のベッドに引きこんで、何時間も欲求不満をくすぶらせるより、いく分マシなように思えた。
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