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第十二章(⑤)

「すまないね、こんな時間に。もう休むところだったかい?」  黒いラッパ型の受話器から伝わってくるクリアウォーターの声は、聞いた限りでは落ち着いていた。そのことに、カトウはとりあえずほっとした。 「大丈夫です」カトウは送話口に向かって言った。 「まだ起きていましたから。何か、緊急の用件ですか?」 「いや、全然。本当に、たいしたことじゃないんだ」 「はあ……」 「本を読んでいたら、分からない日本語に出くわしてね。気になって眠れなさそうだったから、君に電話して聞こうと思ったんだ」  それを聞いて、カトウはさらに緊張をゆるめた。 「何ですか?」 「いや『トチメンボ―』って、知ってるかい?」 「はい?」  耳慣れぬ言葉に、カトウは思わず聞きかえした。クリアウォーターが先ほどより、少し詳しく説明した。 「夏目漱石の『吾輩は猫である』に、『トチメンボ―』っていう言葉が出てくるんだ。でも、何のことだかさっぱり分からなくてね」 「トチメンボ―………ああ、栃麺棒(とちめんぼう)のことですね」  カトウはようやく思い当った。 「栃麺棒は、栃麺(とちめん)っていう料理をつくる時に使うんです。田舎のほうの料理で、麦粉にあくを抜いた栃の木の実からつくった粉を混ぜてつくります」 「へえ。おいしいのかい?」 「まあ、そばみたいな感じですね」 「面白そうだね。今度、邦子さんにつくってもらおうかな」 「あ、それはやめた方がいいです」  カトウは慌てて止めた。 「栃麺はそばやうどんと違ってすぐに固くなるので、生地をつくったら、急いで伸ばしていかないといけないんです。だから、作る方は大変ですよ」 「そうなのかい?」  クリアウォーターの声音が、露骨に沈む。大の大人が、まるで子どものような落胆ぶりだ。  可笑しくて、カトウはあやうく笑い声を上げそうになった。 「それにしても。夏目漱石とか、お読みになるんですね」 「意外かい? 彼の小説の多くは口語体で書かれているから、日本語のいい勉強になるんだ。もちろん、知らない言葉も多く出てくるけど」 「すぐそばに、聞ける人間がそろっていますもんね」  そこまで言って、カトウはふと気づいた。 「そういえば、邦子さんはご不在ですか?」  日本語のことなら、あのチャーミングなお手伝いさんに聞けば、事足りるはずだった。  受話器の向こうで、クリアウォーターが初めて沈黙した。  カトウが不審に思った時、再び声が聞こえてきた。 「邦子さんなら、ちゃんとうちにいるよ。すまない、カトウ。実はうそをついた」 「え?」 「栃麺棒のことは、ちゃんと知っていた。ただ、口実に使っただけだ」 「口実……?」  いったい何の? 「電話の口実」クリアウォーターが言った。 「君の声が、聞きたかったんだ」

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