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第十二章(⑦)

 カトウとの電話を終えたクリアウォーターは、二階の自室に引き上げた。目的は果たした。あとは週末の時間を使って、自分の心と折り合いをつけるだけだ。まれに見る困難事になることは予想できた。だが、それでもやらねばならない…。  せめてカトウのことを考えまいと、クリアウォーターは別のことに頭を使うことにした。  今日までに判明したことのひとつに、北海道から九州の鹿児島に至る地域において、若海義竜(わかみよしたつ)に関する足跡が、この東京にしか残されていないということがあった。それも、一九四五年より遡る記録は一切、残っていない。クリアウォーターは時間をやりくりして巣鴨プリズンにまで足を運び、ソコワスキーの部下であるアカマツという日系二世を通訳にして、甲本貴助(こうもときすけ)にも問いただしたが、若海の呼び名である『ナビキ』について、甲本は一貫して知らないと言い通した。甲本は南方戦線で従軍していた。若海が戦中ずっと満洲で活動していたなら、知らなくてもおかしいことではなかった。  文谷徳治(ふみたにとくじ)の証言によって、満洲にいた若海義竜が、オーストラリアのブリスベンに潜伏していた『ヨロギ』と旧知の仲であったことが判明している。少なくとも、文谷徳治が新京で日本料理屋を開いていた時期に、若海はすでに『ヨロギ』のことを知っていた。  若海が言うところの『同級生』として――。  言葉の意味するところは、ほとんど疑いようがない。若海と『ヨロギ』は人生のある時期、同じ学校に所属していたのだ。そこで、彼らは知り合ったのだろう。その後、若海は満洲、『ヨロギ』はオーストラリアと、活動の場は北半球と南半球に分かれ、二人の距離は何千キロも離れてしまった。  ところがーー奇しくも日本の敗戦が、かつての『同級生』二人をこの東京に呼び寄せた。  これまで分かっているだけでも『ヨロギ』は四人の人間を殺害している。その内、増田豊吉(ますだとよきち)貝原靖(かいばらやすし)については、生阿片を独り占めようとした若海が邪魔者になった二人を始末しようと、『ヨロギ』に依頼したものと考えられる。そして、若海は貝原の雇い主であるクリアウォーターも亡き者にしようとした……。  ひとつの疑問が、クリアウォーターの胸にわだかまっている。  なぜ若海は貝原を葬ったのと同じように、『ヨロギ』を使ってクリアウォーターを殺そうとしなかったのか。ジープを爆弾で吹き飛ばし、さらに銃撃でとどめを刺すというのは、いかにも迂遠だ。そんなことをするより、クリアウォーターが一人でいる時、背後から不意をついて襲いかかった方がよほど手っ取り早い。さらに言えば、邸に忍び込んで寝込みを襲えば、成功率は極めて高かっただろう。クリアウォーターはイギリスにいた頃からボクシングをはじめ、今もトレーニングを続けているが、さすがに寝ているところを襲われたらひとたまりもない。実際に、若海は寝込みを襲われて殺害されている。 「……若海はどうして私の時に限って、自分の組の者を動かしたんだ?」  何かをつかみかけている感触を、クリアウォーターはおぼえる。しかし、それに手が届くより先に、ノックの音が思考を中断させた。 「だんなさま。もうお休みですか?」  クリアウォーターが返事をすると、扉から顔をのぞかせた邦子がにっこり笑った。 「お客さまがいらっしゃっています」 「客?」  クリアウォーターは時計に目をやった。すでに針は十時をまわっていた。邸の門にはW将軍が派遣した兵士がいまだに交代で警備に当たっている。邸までたどりつけたということは、その警備をパスできたということなのだが……。 「こんな遅い時間に、一体誰だい?」 「はい―――」  邦子が名前を言った途端、クリアウォーターの緑の眼がさっと見開かれた。    やって来た人物は、小図書室で待っているとのことだった。邦子に続いて、クリアウォーターは階段を下りる。一階に来たところで、そつのないお手伝いさんはエプロンを外し、雇い主に告げた。 「それでは、今日やるべき仕事は全部終えましたので。もう遅いですし、わたくしはこのまま休ませていただきます。何かございましたら、お手数ですがご自分でなさってくださいませ」  それから颯爽とした足取りで、一階にある自分の六畳間へ引きとっていった。  その後ろ姿を見届けた後、クリアウォーターは覚悟を決めて小図書室の扉を押し開けた。  やわらかな灯の下で、ソファに腰かけていた人物がはっと顔を上げた。堅い表情を見れば、いやおうなく緊張しているのが分かる。  それでも、相手の姿を認めたクリアウォーターの口元に、自然と笑みが浮かんできた。 「ーーこんばんは、カトウ」

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