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第十二章(⑧)

 電話をかけ直すかどうかで、カトウはまず迷った。さらに電話口に西村邦子(にしむらくにこ)が出た時には、よっぽどそのまま電話を切ってしまおうかと思った。しかし――。 「切らないで下さいませ、加藤さん」  万事にそつのないクリアウォーター邸のお手伝いさんは、ハヤブサもかくやという素早さで、マヌケな獲物をがっちり引きとめた。二三のやり取りが交わされた後、カトウは抵抗する気力をすっかりそがれてしまった。白旗をあげるかわりに、ぼそぼそと尋ねる。 「…その。今からおたくにうかがっても、本当にご迷惑ではないですか?」 「大歓迎ですわ」  邦子が力強く即答した。そこで他の選択肢はなくなった。  ……そういった事情がカトウの口から伝えられると、クリアウォーターは頭をかいた。邦子の独断専横ぶりは、雇われ人の(ぶん)を軽々飛び越している。もっとも今のこの状況では、苦情を言ったり、叱りつけたりする気には、到底なれなかった。 「君の住んでいる寮からここまで、半時間はかかっただろうに」  それも街灯もろくにない夜道をだ。クリアウォーターに指摘されたカトウは「平気です」と答えた。 「夜道にはたいがい慣れています。戦地(ヨーロッパ)にいた時、夜間行軍はよくあることでしたから」 「ああ、そうだったね」 「………」 「…もし、のどがかわいているなら。何か飲み物をつくろうか?」  カトウは断った。その声はかすれて、緊張で震えている。そのことに、自分でも気づいた。  道中、歩いている内に、何かしかるべき言葉が見つかるだろうとカトウは期待していた。 甘かった。結局、玄関で待ちかまえていた邦子に小図書室まで通された後も、少しも言うべきことがまとまらず、空っぽの頭は混乱したままだった。  そして今、クリアウォーターを前にしてバカみたいに押し黙っている。  それでも、ひとつはっきりしていることがあるとすれば。この状況は、誰に強制されたものでもないということだ。  自分の意志で、カトウはここまで来た。  黙りこんだまま、カトウは顔を上げた。クリアウォーターは穏やかな表情で、入って来たドアのそばに立っている。しかし、自分から話し出す気配はない。クリアウォーターは待っている。カトウが話し出す言葉をじっと待っている。  仮にこれがキャッチボールだとすれば、今ボールを握っているのはカトウの方だ。  ボールがどんな形をしているか、そしてどうやって投げればいいか、少しも分からないとしても。とにかく、投げなければいけない。多分、どんなに下手くそな死球であっても、クリアウォーターは受け止めてくれる――そんな気がした。 「……あなたとのことを、あんな形で終わりにしたくなかった」  最初の言葉が口をついて出ると、ため込んでいた想いの丈が高波のように押し寄せてきた。 「俺には、あなたの好意を受け取る資格なんてない。今だって自分自身の気持ちさえ、はっきり言えない。愛しているなんて、うそになるから言えない。それでも……このまま終わってしまうと思ったら、耐えられなくなった」  おかしなものだ。口の中はカラカラに乾いているのに、両目には不必要なくらいに塩まじりの水分がたまってくる。それが滴となってこぼれそうになるのを、カトウは必死でこらえた。 「あなたと、離れたくない」  震える声でカトウは言った。 「俺はこんなに中途半端で、情けない人間です。それでも……受け入れてくれますか」  そこで口を閉ざす。投げられるボールは、これで全部だった。  ドアのそばで佇んでいたクリアウォーターが、ゆっくり動き出した。そのままカトウの前まで歩み寄り、そこで立ち止まる。  それから、そっとその場に膝をついた。 「君は、君が思い込んでいるような人間ではないよ」  クリアウォーターの緑色の眼が、濃く深い光を帯びる。 「君は私にすばらしい贈り物をくれた――君を愛するチャンスを、もう一度くれたんだ」  クリアウォーターの大きな手が、頬を包み込む。カトウは目を閉じた。    唇が重なった時、こらえていたものがついにカトウの目の端から流れ落ちた。

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