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第十二章(⑫)

 クリアウォーターは昔から睡眠時間が六時間ほどで足りた。別に、これまで病気にもならず健康体で過ごせているので、これは生まれついての体質だろう。  目が覚めた時、クリアウォーターはカーテンの向こう側がかすかに明るくなっていることに気づいた。おそらく五時半ぐらいだと、時計も見ずに見当をつける。ここ数日、日中の気温は二十度を上回り暖かい日が続いていたが、明け方の空気はまだ低い。実際、鼻先はひんやりしている。それと裏腹に、ベッドの中はいつもより暖かかった。心の中は多分、それ以上か。  規則的な寝息を立てて熟睡するカトウの顔を眺めているだけで、クリアウォーターの胸の内が満ち足りた想いで満たされてきた。 ーーカトウとまたこんな風になれるなんて、予想もしていなかった。  思いがけず与えられた幸運を、クリアウォーターは静かにかみしめた。 ――グラン教授じゃないが。これ(恋愛)も、焦りは禁物だな。  気持ちの整理がついていないと言いながらも、カトウはクリアウォーターのそばに戻って来てくれた。今はそのことで満足すべきである。たとえクリアウォーターの本心が、それ以上のことを望んでいるとしても……。  カトウの細い黒髪をもてあそびながら、クリアウォーターは最初に出会った時のことを思い浮かべた。あの時のカトウは生気に乏しい顔で、ぱさぱさのサンドイッチをコーヒーで流し込んでいた。あれから二ヶ月も経っていない。クリアウォーターが彼の存在を意識し始めてからの時間は、さらに短い。そう、あれは巣鴨プリズンからの帰り道だった。カトウを通訳として連れて、甲本貴助の尋問を行った日の……――。   不意に、尋問中に甲本が吐いた言葉がクリアウォーターの頭をかすめた。 ――『ヨロギ』の正体は本当に知らないんだ。彼は『残置諜報』だ。敵地に残り、情報を送り続ける。いわば死間しかんだ。私は彼の顔も、年齢も、本名も何も知らない――  さらに、かつての恋人カール・ニースケンス中佐がもらしたことも――。 ――…君も知っての通り、『ヨロギ』が発信した情報はどれも非常に新鮮で、精度も高いものだった。それが入手できる人間は限られている。何より『ヨロギ』は日本軍の暗号を使って、日本語で情報を発信していた。これらを考え合わせると――その正体は予想がつくだろう?  ――『ヨロギ』は日系二世の語学兵のひとりである可能性が高い――  ――U機関にひそむ裏切り者こそ、『ヨロギ』本人かもしれない――  クリアウォーターは勢いよく跳ね起きた。  ある仮説が、赤毛の下に隠された脳細胞の中で急速に組み上がり出した。そうだ。『ヨロギ』はそもそも、ナイフを振るう殺し屋である以前に、敵の情報を盗み出すスパイだった。   ーーそう考えれば。そう考えた上での、この仮説が正しければ……!  どうして今回に限り、『ヨロギ』が動かなかったか説明がつく。  そこまで思い至って、クリアウォーターはいてもたってもいられなかった。寝起きのカトウの反応を見る、またとない機会を逃すのは残念でならない。だが、今すぐ自分が組み立てた仮説の正否を確かめたいという気持ちの方がまさった。  クリアウォーターはベッドからはい出すと、落ちてあった下着を拾い集めた。急いで身づくろいを済ませ、安らかに眠るカトウの頬にキスをして、毛布を掛け直してやる。  それから足音を忍ばせて階段を下り、食卓の上のテーブルの上に邦子宛てのメモを残すと、邸をあとにした。

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