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第十二章(⑬)

 幸いにして、邸の門につめていたMPの兵士がU機関の建物まで護衛としてついて来てくれた。クリアウォーターは自ら入口を開錠すると、MPを入口に待機させ、階段をのぼった。  土曜日の早朝のこととて、建物内は当然ながら誰もおらず、静まり返っていた――。  三階の自分の執務室に入ったクリアウォーターはドアを後ろ手で占め、その場で呼吸を整えた。 ――もし、自分が誰かを長期間にわたってスパイするつもりなら……。  機会をつかんで合鍵をつくる。この部屋のものも、そしてキャビネットのものも。 ――鍵の入手は可能か?……答えは当然、イエスだ。  間諜の中には、スリ顔負けの器用さを持つ人間もいる。その技量を持ち合わせているなら。クリアウォーターのズボンから鍵をこっそり抜き取り、素早く粘土を使って型を取ったあと、再び戻すことは不可能ではない。 ――指紋は?……期待はできない。  そのことは、ジープを収納していたガレージの鍵の一件で証明済みだ。 ――なら、証拠はひとつもなしか?………―――。  クリアウォーターは鍵のかかったキャビネットから、一冊の箱型ファイルを取り出した。  そこにはこれまでクリアウォーターが集めた『ヨロギ』に関係する資料が保管されていた。  ファイルを机に置くと、クリアウォーターは中をあらためはじめた。 ――どんなに優秀なスパイも、つきつめれば人間だ。必ずどこかで、小さな失敗を犯す。  ナサニエル・グラン教授の教えを、クリアウォーターは脳裏に思い浮かべる。教授の言葉には続きがある。特に失敗を犯しやすいのは……――。 ――冷静さを失った時だ。  クリアウォーターは資料のひとつを開き、神経を集中させた。クリアウォーターの仮説が正しければ、きっとこのファイルはクリアウォーター以外の人間の手に触れている。  おそらく、クリアウォーターが今、こうして机の上に広げて見ているようにして――。  ファイルの中身を見た者は、血の気が引いたに違いない。  彼はダニエル・クリアウォーターが、どんな男かを知っている。かつて対敵諜報部隊(CIC)に所属し、隠匿物資の摘発において、猟犬のごとき有能さを発揮した上官。その姿を彼は間近で、自らの眼で見てきた。だからきっと――スパイの摘発においても、その手腕をいかんなく発揮すると思ったに違いない。  …十五分後。クリアウォーターはある冊子に、ついに痕跡を見つけた。  それは、貝原靖殺害事件について、サンダースがまとめてくれた報告書だった。     ページの下部が数ページにわたって、赤黒く染まっていた。    机の上で受け取った時、そんな染みは絶対についていなかった。  目に浮かぶようだった。冷静さを失ったその人物は、紙をめくる時に指紋や跡を残さぬよう細心の注意を払っていたにもかかわらず、一瞬、油断した。  そのせいで、指を紙で切ってしまったのだ。ページに血痕こそ落ちなかったが、最初に吹き出した血が紙を数ミリにわたって染めた。その染みを、彼は見落としてしまった。  その結果、残された痕跡は証拠のひとつとして、今、クリアウォーターの手に落ちた。 ――このファイルを裏切り者――『ヨロギ』は、目にした。  かつてオーストラリアで犯した二件の殺人と、東京での貝原殺し。それをクリアウォーターは結びつけて、すでに調査を始めている。  きっと『ヨロギ』はこう考えたに違いない。 ーー尻尾をつかまれるのは時間の問題だ。 ーー迫りつつある最大の脅威を排除しなければいけない。 ーークリアウォーターを何としても、殺さなければいけない……!

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