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第十二章(⑰)
封筒の中の便箋には、英語でこんな文面がつづられていた。
「親愛なるジョージ・アキラ・カトウ
昨夜は本当にありがとう。君が目を覚ますまで一緒にいられなくてすまない。ソコワスキー少佐から連絡が入って、参謀第二部 の本部に顔を出さねばならなくなった。夜には戻ってこれるはずだから、今晩なにも予定がなければ、ぜひまた私の邸に来て欲しい。もちろん、そのまま夜までいてくれてもかまわないから。君に会えるのを、楽しみにしている。
たくさんの愛をこめて。
ダニエル・クリアウォーター
追伸。君の寝顔は最高にキュートだ。もちろん、起きている時の君も最高だ」
……読み進める内に、気恥ずかしさをカトウは覚えた。
クリアウォーターとしてはこれで控えめなつもりなのかもしれないが、それでもカトウを赤面させるのには十分だった。カトウは、読み終えた手紙を丁重にポケットにしまった。曙ビルチングに帰ったら、真っ先にどこか安全なところに隠さなければいけない。クリアウォーターとの関係を、仕事仲間たちには知られたくなかった。
顔を上げると、邦子が興味津津という態でカトウの方を見ていた。
「加藤さん。もちろん、お夕食にはいらっしゃいますよね」
一拍おいて、カトウは「……はい」と答えた。
「ご厄介になります」
「まあ。厄介なんて、そんなことおっしゃらないで」
言葉と裏腹に、邦子の口調は客人に対するというより、年下の男兄弟に接するような気安いものだった。カトウにとっても、そちらの方が気楽でよかった。しかし――。
「それで。だんなさまとは、うまくいきそうですか?」
その問いに、緑茶をすすろうとしたカトウの手が止まる。張りつめた横顔に気づいた邦子が、慌てて謝ろうとする。その謝罪の言葉に、カトウの声が重なった。
「――昔、ある人のことを好きになったんです」
邦子は目をしばたかせた。それから、
「男の方?」と尋ねた。カトウはうなずいた。
「俺が陸軍にいた頃、同じ小隊の同じ分隊に所属していた仲間です。名前はハリー・トオル・ミナモリ。ハワイ出身の日系二世で、俺よりひとつ年上でした――」
それからカトウは語り出した。ミナモリとどんな風に出会ったか、訓練兵の頃から戦場に投入されたあと、彼がどれほどカトウのことを支えてくれたか。そして、どんな風に命を落としたかも――。
戦争が終わる前に、フランスかイタリアの片隅で自分は死ぬものだとカトウは思っていた。だが運命はどこまでも意地悪な采配をするらしい。生きて帰りたい男たちに「名誉」の死を、死にたがっていたカトウに孤独な生還を与えた。
話を聞き終えた邦子は静かにたずねた。
「加藤さんは、そのミナモリさんという方のことをまだお慕いしているのね」
カトウは答えない。その骨ばった手に、邦子はそっと手を重ねた。食事したばかりだというのに、カトウの手はひどく冷えていた。邦子はたまらなくなり、その手を握って温めてやりたくなった。
「――だけど。だんなさまのことも、好きになりかけているのでしょう?」
カトウはおびえたような目つきで、邦子を見た。反論しかけ、途中でそれをやめ――やがて、ぽつりと言った。
「――恐いんです」
せきを切ったように、カトウの口から言葉が溢れてきた。
「トオルのことを忘れてしまうのが。どんなに好きだったか、忘れてしまうのが恐い。それに情けないんです。こんなに簡単に心変わりしてしまうなんて。あれからまだ二年しかたっていないのに、ほかの男 のことを好きになるなんて……」
沈黙が二人の間に落ちる。しばらく、動くものといえば湯呑みから立ちのぼる湯気だけだった。やがて邦子が小さく息をついた。
「わたくしのことを話してもよろしいかしら、加藤さん」
カトウはとまどいながらも、かすかに首を縦に振った。
「わたくし、実は前に結婚していたんです。でも式を挙げていくばくも経たない内に、赤紙が来て、夫は南方に出征しました。そして……そのまま帰ってきませんでした」
カトウはびっくりした。だが邦子の年齢を考えれば、少しもおかしいことではなかった。
「夫の遺髪だけが戻って来た時は、泣いてしばらく何も手につきませんでした。でも今は――実は少し前に、復員してきた方と見合いをしまして。会って話をする内に、この方とならと思い始めたんです。もちろん、最初はうしろめたさも感じました。でも、気づいたんです。わたくしが本当の意味で、死んだ夫にしてやれることはもうないし、あの人がわたくしに何かをしてくれることも、もうないのだと。だから、決めたんです。思い出は胸にしまって、先へ進もうって――」
邦子はカトウの方をうかがった。この痩せぎすで、純朴な青年の目に、自分はどう映っているだろうか。二夫にまみえる不貞な女? それとも……。
かまうものか、と邦子は思った。ただ、カトウに伝えてやりたかった。
新しい恋をはじめることは、少しも悪いことではないのだと。
「――できることなら、幸せになれる選択をしてください」
邦子はにっこり笑った。
「だんなさまにとっても、加藤さんにとっても。幸せになれる選択を」
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