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第十三章(③)
先週の金曜日の夜から始まって、土曜、日曜、火曜、木曜と、カトウはクリアウォーターの邸に泊まっていた。すでにサンダースとは、昼夜の護衛のシフトを交替している。サンダースはその理由について薄々察していたようだが、実際に水曜の朝にクリアウォーターを迎えに行って、そこにカトウの姿を見いだした時は、何とも言えない表情になった。だが、幸いにして事情を察した中尉は固く口をつぐんで、黙っていてくれた。カトウに対しても、周囲に対しても。
こういう多少の気まずさはあったが――クリアウォーターとの関係を断とうとは、カトウはもう考えられなくなっていた。ベッドの中での行為に、完全に慣れたとは言いがたい。それでも、身体を重ねるごとに、痛みはだんだん減ってきた。そして、それと反比例するように――感じる快楽は確実に深まっていった。
だけどそれ以上に、カトウが捨てがたく感じているのは、クリアウォーターと一緒に過ごす親密な時間の方だった。セックスの間のことだけではない。同じ食卓について邦子の作ってくれた料理を味わい、それから小図書室で気兼ねなく談笑する。
そんなささやかな日常の積み重ねが、カトウにはこの上なく大事なものに思えた。
この一週間の間に、カトウはクリアウォーターについて様々なことを知った。彼の家族のことや、この邸で子ども時代を過ごしたこと、そして一九二三年に起こった関東大震災をはさんで、東京の街がいかに変貌したかなど…。
対照的に、カトウが語れることは少なかった。カトウの人生を占めている出来事はたいてい悲惨すぎるか、無残かのどちらかだ。そして、わずかに幸せな記憶には、たいていミナモリが関わっている。幸い、クリアウォーターはカトウの過去を無理に詮索することはなかった。背中と腹部の傷がなぜできたかも、自分から聞いてくることはなかった。
二人は小図書室のソファに並んで座る。最初の頃はちゃんとしているが、くつろいでくるとだんだんと姿勢も崩れてくる。するとクリアウォーターはソファに寝転がって、カトウを腕の中に引き寄せる。
服ごしに感じるクリアウォーターの体温は心地よく、眠気をさそわれた。
背中にクリアウォーターの腕を感じながら、カトウは自分が子どもの頃にかわいがっていた猫のことを思い出した。見た目はちょっとふてぶてしいトラ猫。野良だったが、夜になるとふらりとカトウのいる物置やかまどのある土間のところにやって来て、一緒に寝てくれた。哀れっぽい身なりのカトウを、自分の同類とみなしたのかもしれないが、冬場は本当にありがたかった。かまどの残り火と薄い布団だけでは寒すぎたが、猫を抱いてお互いの体温で温め合えば、凍えずに済んだからだ。
ーーその時の猫の立場が、今の自分だな。
身体を密着させて、寄り添い、身体をゆだねる。自分の脆い部分をさらけ出しているようで、最初は少し躊躇があった。しかしクリアウォーターが心底くつろいでいるのを見る内に、それもすぐに消えていった。
「――君は本当に細身だな」
カトウの背中に手を回し、頬を寄せてクリアウォーターがささやく。
「力を入れるのが、少しこわい」
「…そんなに、ヤワじゃないですよ」
控えめにカトウは反論する。
「俺が昔、二十数キロの背嚢をかついで、ガーランド銃と弾をこめたクリップと手りゅう弾で武装して、一日十何キロも行軍可能な陸軍兵士だったことをお忘れなく」
「そうだったね、兵士君 」
クリアウォーターは笑ってカトウを抱きしめた。あくまでも優しい手つきだ。
「べたべたされるのは嫌いかい?」
「……慣れてはいません」
これは本当のことだ。こんなに親密に誰かと触れ合うのは、カトウにとって初めての経験だった。
――今までに優しく抱きしめられたことって、何回くらいあっただろう?
多分ふたケタもいかないに違いない。逆に不満のはけ口やただの気晴らしで、叩かれたり殴られた機会は、その数百倍はありそうだ。
そう思っていると、クリアウォーターが軽くキスしてきた。
「では、ぜひ慣れてくれ。服のあるなしにかかわらず、私はべたべたするのが大好きだから」
ここまで露骨だと、とがめる気もおきない。言葉にするかわりに、カトウはぎこちなくキスをかえした。クリアウォーターは喜んでそれを受け入れ、さらに勢いづいて舌を使いはじめた。
――コツは、頭で考えるんじゃなくて、相手のリズムに合わせること。
カトウは目を閉じ、流れに身をゆだねた。舌と唇が唾液をはねて、クチャクチャという淫猥な音を立てる。しばらくすると、たまらずに鼻にかかった声がのどの奥から洩れだす。そこにクリアウォーターの低くかすれた声が混ざった。
ソファは狭く、寝返りを打つのもままならない。不自由な中で足をからめると、固くなったクリアウォーターのものがズボンごしにカトウの太ももに当たった。おそらく、カトウの勃起にも間違いなく気づかれている。こうなると、ソファはもう場所として最適でなくなる。
カトウが目を開けると、クリアウォーターが上気した顔で、いたずらっぽく笑った。
「この続きは、シャワーを浴びて二階に移ってからするほうが適切だと思うが、どうだい?」
「…ですね」
連れ立って廊下に出ると、壁のよく目につく所にメモが留めてあった。
『自室におります。十時までは起きていますので、ご用がある時はお呼びください 西村』
カトウとクリアウォーターは顔を見合わせ、それからどちらともなく微笑んだ。
次の日の朝日がのぼるまで、二人が邦子と顔を合わせることはなかった。
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