196 / 264

第十三章(⑥)

 ……もし、カトウがクリアウォーターの置かれていた立場を知ったら、少しは考えを変えて態度を改めたかもしれない。  参謀第二部(G2)本部、旧日本郵船ビル。参謀第二部を統括するW将軍は、この日の夜、対敵諜報部隊(CIC)のセルゲイ・ソコワスキーとU機関の長ダニエル・クリアウォーター少佐の両名を、自らの執務室に呼び出した。  やって来た二人の若き少佐を椅子に座らせ、将軍は少し待つように言った。すでに五十五歳になった老将軍は、書類仕事をこなすときに眼鏡をかけている。万年筆を紙の上に走らせながら、「二人とも食事は済ませたかね?」と顔もあげずに尋ねる。二人がイエスと答えると、「それなら、結構」とつぶやいた。  やがて仕事が終わったらしく、万年筆を置いた将軍は眼鏡を外して顔を上げる。そして鷲のような眼光を、半白の髪の少佐と赤毛の少佐にくれた。 「――どちらから先に報告するかね?」  ソコワスキーとクリアウォーターは一瞬、互いを見交わした。ソコワスキーがかすかにうなずき、立ち上がった。 「小官から、まず増田豊吉が大連で横領した生阿片について、現在までに判明したことを報告いたします。旧日本陸軍の下請けを目的に設立された商社『S通商』の社員、増田豊吉は一九四五年八月九日、ソ連赤軍が満洲に侵攻したその日に関東軍の所有であった生阿片十トンを着服し、これを密かに煙台へ運びました。生阿片の積み込みには、当時大連で倉庫業を営んでいた岩下拓男及び、新京から避難していた民間人の文谷徳治、そして関東軍の軍人であった若海義竜が関わっています。彼らの身分や生存者の証言から判断するに、輸送の中心的役割を果たしたのは、軍人の若海であったと推測されます。生阿片はその後、青島(チンタオ)まで運ばれたことが確認されましたが、その後、どうやって、またどれ程の量がこの占領下日本(Occupied Japan)に流入したかは、まだ判明しておりません。現在までに発見されたのは、岩下拓男が所持していた一部と、若海善竜の屋敷から押収された分のみで、合計しても二百キロに満たない量です」  ソコワスキーはそこで一度、質問を待った。  W将軍にうながされて、再び口を開く。 「その二ヶ月後、一九四五年十月五日、八王子市郊外に潜伏していた増田が刺殺体となって発見されました。殺害方法及び使用されたと推測される刃物の形状から、増田は旧日本軍のスパイ『ヨロギ』に殺害されたと見て、まず間違いありません。この『ヨロギ』は今年三月十二日、都内の文京区で貝原靖を殺害した人物であるだけでなく…」  その時、W将軍は故意にせきばらいをした。 「…ソコワスキー少佐。途中でさえぎって悪いが、『ヨロギ』については私もよく知っている――ある面では、おそらく貴官以上に」  将軍は卓上のシガレットケースを開き、煙草を一本取り出した。火をつけるのかと思われたが、くわえずにそのまま指の間でもてあそぶ。 「…私は先の大戦で、日系二世(ニセイ)の市民たちが輝かしい戦果を挙げるのを、この二つの眼で見てきた。困難な時期に立ち上がり、祖国への忠誠を果たした彼らのことを誇りに思っているし、その思いはこれからも永久に変わることはあるまい。それだけに――」  火のつけられぬ煙草が、将軍の手の中でぐしゃっとつぶれた。 「彼らの名誉を汚し、損なう裏切り者の存在が許せないのだ」  固唾をのむソコワスキーの横で、クリアウォーターは将軍の生い立ちを思い起こした。  ドイツに生まれたW将軍は、自身が若き日にドイツからアメリカに移り住んだ移民の一世である。彼は軍人としての人生を選び、陸軍に入隊した。そしてその数年後に、第一次世界大戦を迎えたのである。  先の大戦と合わせて、実に三十数年の期間において、その身をアメリカ陸軍に置いた熟練の老将は、移民の――特にアメリカの敵国となった国からやって来た移民の立場が、アメリカ社会においていかに不安定なものであるかを、わが身をもって学んできた。  だからこそ。誰よりも祖国に忠実なアメリカ市民たらんと己を律する一方で、同胞の中に現れる裏切り者の存在を、人一倍憎悪するのかもしれない。

ともだちにシェアしよう!