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第十三章(⑧)
立ち上がったクリアウォーターは余計な前置きを省き、若海義竜殺害時のU機関メンバーのアリバイ調査の経過を報告した。
「現時点で、アリバイが不透明 の者は三名に絞られました。リチャード・ヒロユキ・アイダ准尉、トノーニ・ジュゼベ・ルシアーノ・フェルミ伍長、それからマックス・カジロー・ササキ軍曹です」
クリアウォーターが一週間で頼れる伝手 ――その中には、有象無象との抗争に勝利し若海組のシマを手に入れたばかりの白蓮帮 も含まれた――を駆使して調べ上げた結果、まずフェルミの当日の行き先が判明した。
何と彼は通勤バスを降りた場所、銀座のPXから百メートルも離れていない建物の地下にあるナイトクラブにいたのである。そこは本格的なバンドマンたちがアメリカで流行の最先端を行く音楽を演奏するため、占領軍将兵たちの間でもよく知られていた。フェルミはナイトクラブを経営するオーナーに頼み込み、バンドが演奏される舞台のそでから、ホールでダンスに興じる男女をスケッチさせてもらっていたのである。とりわけお目当ては、将兵が連れて来る洋装・和装の日本人女性たちだった。
もっとも、オーナーも単なる親切心だけで、顔の半面が崩れた奇矯な青年を、無料 で入場させていたわけではない。フェルミの画力の高さを見抜いたオーナーは抜け目なく、待合室に飾る目的の絵の制作を持ちかけたのだ。フェルミは好きな時に来ていいこと、そして絵具代だけをもらうという条件でこれを受け入れ、スケッチにいそしんでいた次第だった。
若海が殺された当日も、通勤バスを降りてまっすぐにそこへ向かったらしく、午後六時過ぎに彼がやって来たことをクラブの守衛が証言した。
「――しかし、到着した後、フェルミ伍長はずっと誰かに見張られていたわけではありません。時々、舞台のそでで絵を描いていた彼を見たという者もいましたが、日数が経ちすぎていることもあり、正確な時刻を覚えている者はいませんでした」
ダンスホールから木挽町の若海の屋敷までは歩いて十分もかからない。四十分ほどの時間があれば、殺人を行うことは不可能ではなかった。
「次にアイダ准尉です。彼の行き先については、心当たりがある場所がありましたので、そちらを当たったところ、案の定、事件のあった日の夜にアイダが来ていたことが分かりました」
「女か?」
「…ええ。麻布区の広尾町にある日本人女性の家です。そこの女中に人を介して尋ねたところ、アイダは午後七時半頃にやって来たとのことです」
将軍はアイダと女性との関係について、深く追及することはなかった。聞いたのは別のことだ。
「時間的に、彼に犯行は可能か?」
「厳しいかと思われます。アイダは退勤した後、一度寮に戻っています。出かけたのは五時半より前。荻窪を出発して、若海の屋敷に行き、そこからさらに麻布まで行くーー犯行時間も含めて二時間でそれを成し遂げるのは、よほど手際よく行わなければ無理です」
「だが、不可能ではないと」
「…はい」
可能性がゼロでない以上、容疑者から除外することはできなかった。
「最後のひとりは、ササキ軍曹です。当初、ササキはニイガタ少尉とともに、新宿にある彼らの行きつけの店に六時頃に来店し、八時ごろまでそこで飲んでいたと思われていました。ところが調査し直したところ、実は六時に店に来たのはニイガタ一人で、ササキは遅れてやって来たことが判明しました」
ササキが店に現れたのは、ニイガタの来店から一時間も経った午後七時前だった。荻窪から新宿に出て、その後、犯行に必要な時間も含めて新宿―木挽町間を一時間半で往復しようと思ったら、車を使わなければまず不可能だ。だが裏を返せば、車があればぎりぎり行って帰って来れないことはない。
それ以上に問題なのは、ニイガタと一緒に退勤したはずのササキがどうして一時間も遅れて現れたかだ。ニイガタに聞けば分かるだろうが、それは最後の手段である。ニイガタも馬鹿ではない。そんな質問をすればすぐに、自分たちが若海殺害について容疑者扱いされていると気づくに違いない。
フェルミにアイダに、ササキ。
三人ともアリバイは成立するかどうかという境界線上にある。
クリアウォーターにとっては、頭をかかえたい状況だった。
聞き終えたW将軍は、壁にかけられたカレンダーにちらりと目をやった。
「今日は四月二十五日。貴官と貴官の部下たちが若海組に襲撃を受けた翌日、私は君と約束を交わした。覚えているだろうな?」
「はい、閣下。四週間の猶予を小官にくださいました」
「…ふむ。正直な思いを打ち明ければ、すぐにでもアリバイがあやふやな貴官の部下三人に対して、尋問を行いたいところだ」
だが、それはさしあたり控えよう――W将軍は言った。
「理由はふたつある。第一に、今U機関のメンバーの拘束に踏み切れば、貴官と先に交わした約束を反故 にすることになる。一度交わした約束を破るのは私の信条に反する。さらに全員を拘束して尋問をすれば、その情報は必ずどこかから洩れる。三人の内、二人は日系二世 だ。日系二世のアメリカ市民の中に、大戦中に祖国を裏切っていた者がいるかもしれないという噂が流れるだけでも由々しきことだというのに――捜査の結果、もし片方が裏切り者だと判明すれば、日系二世たちが築き上げてきた信用が、一朝で地に堕ちる。この世で真実ほど、力を持つものはない。万一、日系アメリカ兵の中に戦中、日本の手先となって裏切りを働いていた者が見つかれば、その事実はアメリカ市民としての彼らにとり、永遠の汚点として残ることになる。ーーそれは何としても避けたい事態だ」
W将軍は二本目の煙草を取りだし、今度は火をつけて喫った。
「すべては一瞬で、外部の者に洩れることなく、片をつける……それが理想の形だ。残された時間は少ないが、貴官は調査を続行しろ」
「ありがとうございます」
「ただし期限の延長は一切なしだ」
将軍は厳しい口調で釘をさした。
「五月一日木曜日午前零時を以って、貴官は本案件における指揮権限を失う。そのかわりに新たな責任者が任命され、仕事を引き継ぐことになる。それは理解しておくように」
クリアウォーターはこの場合の最良の顔――つまり、表情を一切表に出さずに短く言った。
「承知しました、閣下」
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