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第十三章(⑩)

 翌朝。土曜日としては早い時間帯に朝食を済ませたカトウは、自分の部屋で準備を始めた。白シャツと黒いズボンを身につけ、髪型を少しいつもと違う形に整える。拳銃を持って行くかどうかで最後まで迷ったが、アイダが万一、裏切り者だった場合、武器がない状態で対峙するというのはいかにも心細い。結局、腰の後ろにホルスターを回し、その上からコートを羽織って携帯していくことにした。  支度を整えて廊下をのぞくと、折よく誰もいなかった。土曜日のこの時間は、たいていの人間が寝ているか、外泊してまだ帰っていない時間帯である。  廊下に出たカトウはすばやく行動を開始した。  廊下を一気に突っ切って階段を下りれば、玄関はすぐそこである。ところが、階段にたどりつく直前、そこに一番近い部屋のドアが、がちゃりと開いた。  中から出て来た男は、気の抜けたあくびしながら目をこすった。 「ふぁぁぁ……おお!?」  そして途中で固まっているカトウに気づいて、目を丸くした。 「なんじゃ、カトウ。その(かっ)……」  (こう)と言い終えるより先に、カトウはササキの襟首をつかんで、彼が出て来たばかりの部屋に引きずり込んだ。  ササキは用事がある時、たいてい自分からカトウの部屋にやって来る。一方、ササキが頻繁に邪魔しに来るので、カトウはわざわざ自分からササキの部屋に足を向けたことがなかった。  初めて入った室内は、カトウの部屋と大差がなかった。だが、意外ときれいに片付いている。そしてわざわざ買ったらしく、小さな本棚がしつらえられ、そこに本が並んでいた。見たところ大半は古い写真帳のようで、京都や奈良、それに鎌倉といった観光地の名前が読み取れた。  カトウがさらに詳しく見ようとした時、背後でササキのドラ声が上がった。 「お前、ずるいやつじゃのう。ミィに黙って、抜け駆けしようとしてたな!!」  カトウは抗弁しかけたが、まさにササキの言う通りだったので、反論しようがなかった。  ササキはふくれ面でカトウをにらんでいたが、しばらくすると感心したように言った。 「――よう似合とるわ。ホンマに日本人みたいじゃ」  それはそうだろう。カトウは二歳から十三歳まで、ずっと日本で過ごした。おそらく翻訳業務室の日系二世(ニセイ)の中で、一番日本人にうまく化けられるに違いない。 「それで。お前、その格好ってことは、アイダ准尉を尾行する気か?」 「…ああ」仕方なく、カトウは認めた。 「なるほど。そういうことじゃったら……」 「絶対について来るなよ」  カトウは先回りして、怖い顔で念押しした。  ことスパイ行為に関して、素人のカトウでも分かる。尾行を成功させたければーーというより、失敗したくなければ、騒がしい人間は決して連れて行かないことだ。  …午前中ということもあって、荻窪駅前のヤミ市は比較的閑散としていた。それでもバラックの多くが開店し、柱には「巻タバコ」や「なべ修理」といった張り紙が貼られ、机の上には様々な日用品が並べられて売られていた。いくつかの店からは、魚を焼く煙や麺をゆでる湯気が漂い出ている。道行く人とすれ違い、避けながら、カトウは中央本線の荻窪駅を目指した。  その横で、間延びした声が上がった。 「よかったのう。これだけ人が多いけん、多分見つからんじゃろ」 「…だといいな」  カトウはぼそっとササキに言った。ついて来るなと言ったが、結局ササキに負けてカトウは行動をともにするはめになった。ぐずぐずしていたら、アイダが出かけてしまうということもあった。  駅前まで来ると、二人は先に新宿までの切符を買い、改札口が見える物影に陣取った。 「麻布に行くんじゃったら、間違いなく電車と市電を使うはずじゃ。ここで待ち伏せしとったらええ」  カトウはうなずき、電柱に背中をもたれかけさせ、頭にかぶった帽子をかぶり直した。先ほど、店の一つで手に入れた古い軍帽だ。ササキの方も、同じ店でつばつきの帽子を買ってかぶっていた。  やって来るアイダの姿を見逃すまいと、カトウは改札口に入る客に神経を集中させた。  待つことに、カトウは慣れている。戦場では、実際に銃を撃っている時間より、歩いたり、這っていたり、あるいは塹壕にもぐりこんでいる時間の方が長い。ミナモリと組んで偵察任務に出た時、一度など敵に近づきすぎて数時間動けなかったこともある。その時の経験からすれば、多少の緊張はするものの、弾が飛んでこない分、のんびりしたものだ。  しかし、ササキは違ったようである。最初、カトウと同じくらい熱心に見張っていたが、三十分もすると早くも集中が切れ始めた。 「ひまじゃのう」 「だったら、帰れよ」 「えー、そないな冷たいこと言うなや」 「……」 「のう、ひまじゃけん、しりとりでもせんか?」 「しない」 「ええじゃろ。しりとりの『し』から始めるで。ほな――『塩辛(しおから)』」 「ラーメン」 「一瞬で終わらせんな!」  そんなやり取りを十回ばかり繰り返した時だった。 「……来たぞ!」  カトウが鋭い声で注意をうながした。その声には、ほんの少し驚きも混じっていた。  きちんと見ていなければ、そして足を引きずっていなければ、多分見逃していた。それくらいアイダの変装は巧みで、周囲の日本人たちに見事に溶け込んでいた。アイダはこの日、白いシャツにベージュのズボンといういで立ちだった。頭にはくたびれたハンチング帽をかぶり、左手には風呂敷包みを下げている。脱臼した腕はもう吊っていないが、右足は相変わらずだ。  うつむきかげんに歩くその背中を見失わないぎりぎりの距離を保って、カトウとササキはアイダの後を追い、改札口から荻窪駅の構内へ入った。

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