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第十三章(⑫)

 そこは赤十字病院から最寄りの停留所だった。市電で通って来た道中、隣接する街区までは空襲で焼けた跡がはっきり残っていた。しかし病院のあるこの一帯は奇跡的に焼失をまぬかれたようで、昔の街並みが残っていた。  市電を降りたアイダは、病院と反対方向に向かって歩き出した。カトウは何気ない風を装い、五十メートルほどの距離を置いて尾行を開始した。  幸いアイダは足が早くない。十分、余裕を持って追うことができるーーカトウがそう思っていると、アイダは前方に見えてきた公園に足を踏み入れた。  そこは自然の高低差を生かして作られた池畔を擁する、比較的大きな公園だった。木々が生い茂り、ありがたくないことに見通しが悪い。近道をするつもりか、風呂敷包みを手にしたアイダはその中の小道をひょこひょことのぼって行く。カトウも見失わないように後を追った。  ところがである。一番高い場所まで来た時、一瞬前まで確かにいたはずのアイダの姿が忽然と消えた。 「なっ………!」  カトウは色を失った。それくらい、一瞬のできごとだった。慌てて左右を見わたしたが、アイダらしい人影はどこにも見当たらない。カトウはいつでも拳銃を引き抜けるよう、腰の後ろに手をやりながら、公園のあちこちを探しまわった。  だが、最後には「くそっ」と悪態をついた。 ーー間違いない。尾行に気づかれていた。  ほぞをかむ思いで、カトウは入って来たところに戻った。尾行を巻いたとなれば、アイダはすでにどこかほかの場所へ移動しているだろう。公園に出入りできるところは複数存在する。こうなれば、もう追いかけようがなかった。  尾行は失敗に終わった。  カトウはため息をついた。ササキにさんざん文句を言われそうだ。    カトウが停留所への道を引き返しかけた、その時だった。  中年の女性に手を引かれたひとりの少女が、道の向こう側からこちらに向かって歩いてきた。はずむような足どりと、その足の真新しい赤い靴がカトウの目を引いた。  二人連れとすれ違うまで十メートルに迫った時、少女が急に笑い出し、カトウに向かって手を振った。  否――彼女が笑みを向けたのは、その背後にいる人物であった。 「あ、会田(あいだ)のおじちゃん! もう来てたのね」  ぎょっとして、カトウは振り返った。そして振り返って、さらに肝を冷やした。  一体、いつの間にそんな距離までつめよられていたのか、カトウはまったく気づいていなかった。二メートルと離れていないところにアイダが立っていた。風呂敷包みはどこかに置いてきたらしく、片手の指先をズボンのポケットに差し入れている。  その手の形とアイダの冷え切った表情で、カトウは悟った。ポケットに入っているのはハンカチなどではない。自分の首をかけてもいい。  アイダは背後からのどを掻き切る気満々で、自分を尾行していた男に忍び寄っていたのだ。  無表情に近かったアイダの顔は、すぐに驚きに変わった。 「カトウ……?」  そのアイダのそばに、事情をまったく知らぬ様子の少女が駆け寄ってきた。二重まぶたの愛くるしい目。その目の形に、カトウは見覚えがあった。  そう、ちょうど今、目の前にいる日系二世の准尉ととても似ていて――。  カトウは、少女とアイダをまじまじと見やった。アイダはあきらめたように肩をすくめると、少女に分からぬように英語で言った。 「カトウ軍曹。ちょっと話がある――もちろん、つきあってくれるよな?」

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