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第十三章(⑬)

 先ほどの公園の池のほとりで、カトウは昨日の夜、ササキの目撃談を聞いたことから現在に至るまでのあらましを、洗いざらい白状した。  聞き終えて、アイダはたずねた。 「ササキを新宿駅で置いて来たのか?」 「はい。目立つんで」 「…いい判断だ。おかげでさっき降りた停留所に着くまで、後をつけられていることにマヌケにも気づかなかった」  アイダは赤十字病院下の停留所で、尾行者に気づいた。すでに目的地の最寄り駅に来てしまっていた。もう一度、市電に乗ることを思いついたが、それよりも付近にあるこの公園で相手を撒いた方がこちらの目的に気づかれないと思ったのだ。  カトウの前から姿を消した時、アイダはすぐ近くの藪にひそんでいた。カトウが移動すると、そこからゆっくり後退し、公園の外の道を使って入口に舞い戻り、尾行者の顔を確かめようと待ちかまえていたのである。  ところがアイダにとってまことにタイミングが悪いことに、あの二重まぶたの少女がうろうろする尾行者の方に近づいてきた。もし彼女に万一のことがあったら――アイダは迷わず風呂敷包みを置いた。そして持って来たナイフ片手に、尾行者の正体を確かめ、おどかし、場合によっては叩きのめすために忍び寄ったのである。  カトウは淡々と語るアイダの横顔を眺めた。先ほど気づいた二重まぶたの眼だけではない。全体的な顔の輪郭やパーツについて、アイダと少女はいくつもの共通点を持っていた。カトウの内心に気づいたのか、アイダは例の皮肉っぽい笑みを口元に刻んだ。 「あの子の名前は繁子(しげこ)というんだ。今年で九つになる」  アイダは水面のきらめきに、一瞬目を細める。それからよく通る声で言った。 「――俺の子だ」 「俺は昔、この近くに住んでいたんだ。この公園にも時々来ていた。それで――繁子の母親と出会ったんだ」 「…ずい分、若く結婚されたんですね」  カトウの台詞に、アイダは「バカ」と苦笑いした。 「繁子の母親の旦那は、麻布住まいの陸軍大尉だ。母親自体、どこぞの藩主の血を引く地方の名家の出だ。俺ごときがめとれる相手じゃない」 「え……えっと、では…」 「お前さんだって、『間男(まおとこ)』っていう日本語くらい知っているだろう?」  カトウは、唖然としてアイダを見つめた。見つめられた方は、軽く肩をすくめた。 「俺は生まれついて、根っこが向こう見ずでな。だが十七、八のころやってたことに至ってはーー今、思えば我ながらバカとしか言いようがないんだな。これが」  …事の発端は、アイダが叔父夫婦の家に居候していた十八歳の夏に遡る。  当時、アイダは旧制中学校の最終学年に在籍していた。十二歳でアメリカから日本に来た当初こそ、日本語に慣れず四苦八苦していたが、この頃になると持ち前の負けず嫌いもあって、ほかの同級生とも遜色のない日本語を話せるようになっていた。  そして、彼らと比べた時、英語は抜群によくできた。  そこで中学の校長は、アイダの後見をしていた叔父に大学への進学を進めた。叔父は乗り気だったが、アイダ本人にその気は微塵もなかった。  というのも、彼の希望は軍人になることだったからだ。当時、日本にたちこめていた軍国主義が、多感な時期の青年のヒロイズムを刺激したという面はある。  しかし、それ以上にアイダは本質的なところで人生にある種のスリルや冒険を求めていた。 「特に、飛行機乗りに憧れてな。航空の予科練に行こうと、叔父に隠れて色々と準備をしていた。で、うるさい叔父から逃げる意味もあって、時々この公園に気晴らしに来ていた。そこで薫子(かおるこ)――繁子の母親に会った」  暑い夏の盛りのことだ。アイダ――会田宏之青年が、文庫本片手に木陰で涼んでいると、夏物の麻の着物を小粋に着こなした女性が、公園の小道を歩いてきた。文庫本から目を上げたアイダは、そのまま薄化粧をほどこした女の小ぶりな顔から目が離せなくなった。  アイダのぶしつけな視線は、すぐに女の感知する所となった。 「それはもう、怖い目でにらまれたさ」  つんと澄まして、女はアイダから少し離れたところを通り過ぎて行った。しかしその時、女の歩みがわずかに乱れたことを、アイダはちゃんと見ていた。  それからわずか十日後の晩には、薫子の家の一階にある夫婦の寝室で、アイダは彼女を組み敷いていた。夫は朝鮮に出張中の身であった。  十八歳のアイダは、薫子に熱を上げた。しかし彼女にとっては、初めから一時の火遊びにすぎなかった。出張中の夫が戻ってくると分かると、薫子はアイダにそのことを告げ、もう来るなと一方的に言った。そして翌日からアイダが来ても、決して家に上げなかったのである。  アイダはこの仕打ちに、ひどく傷ついた。一時はやけっぱちになって、いっそ首でもくくろうかと考えたが、結局それは止めて、全部わすれようと決めた。だが、たとえ軍に入っても、日本にいる限り、二本の足が薫子の家に向かうことは自分で分かっていた。  だから父親に長い手紙を書いた。日本での生活はもう十分だ、日本語も身につけたから、アメリカに戻りたいとーーその半年後、叔父夫婦に別れを告げたアイダは横浜から船に乗り、生まれ故郷のアメリカに戻った。一九三八年のことだった。

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