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第十三章(⑭)

…それから三年の月日が流れた。  日本がアメリカと開戦することになるその年、アイダはすでに陸軍に入隊し、故郷のミズーリ州で軍務についていた。確か九月のことだ。アイダは所属する州兵歩兵連隊の連隊長に呼び出され、日本にどれくらい滞在していたか、さらに日本語がどの程度できるか質問してきた。  すでに日本との間で外交的緊張が高まっていたが、それでも続く時代に比べれば穏やかな頃だったと言える。アイダは内心で首をかしげつつも、両親の母国で七年間過ごしたこと、大学に入学できるくらいの学力は持っていることを説明した。  その二ヶ月後、アイダの姿はカリフォルニア州に向かう列車の中にあった。到着したのは、第四軍語学学校――後に日本語語学兵の養成拠点となる「陸軍情報部語学学校」の前身となる施設だった。  そこでアイダは、自分と同じく全米各地からやって来た日系二世たちの姿を見いだした。 「ただし学校と言っても、机と椅子はカリフォルニア産オレンジを入れていた箱で、教室は倉庫だった。ま、金がなかったんだろうな」  日本との開戦を見据えて、先見のある一部の軍人が日本語のできる語学兵の養成機関設立を進言した。その結果、わずかな予算が上から降りて、開校にこぎつけたという次第だった。  アイダは到着してまもなく、この話を受けたことを後悔し始めた。とにかく退屈だったのだ。錆びついていた日本語力をほどなく取り戻すと、もうあとは早く卒業して連隊に戻ることばかり考えていた。  ところが。日本軍がハワイ島の真珠湾を攻撃したことによって、すべてが一変した。  戒厳令が敷かれる中、学校は閉校することなく存続し、授業が続けられた。アイダたちが卒業するまでの間に、周囲では日系人指導者が相次いで逮捕され、さらに四二年の三月末から軍事管轄区域に居住する日系人に対し、強制退去と収容所への移送が開始された。  アイダは、それを淡々と眺めていた。思うところがなかったわけではないが、彼の手でどうこうできる事態でもなかった。  アイダ自身にとっての転機が訪れたのは、卒業間際のことである。  元々所属していた連隊では、アイダは結構な有名人だった。体格こそ周りの白人兵に劣ったが、上官からの評価は「優」で(数少ないマイナス評価のひとつは「口が時々辛辣に過ぎる」だった)、兵隊同士のケンカで一度も負けたことがなかった。優秀な語学兵である以前に、優秀な兵士だったのである。  訪問者である某大佐は学校に到着するなり、校長にアイダを呼び出させた。  そこでアイダは、日本軍との交戦地帯における情報収集任務につくことを求められたのである。場所は南太平洋方面。ニューギニア島が一番濃厚な候補地だった。 「やります」  二つ返事でアイダは答えたのには、校長も大佐もさすがに驚いた。大佐は椅子に座り直し、二つの眼を若い日系二世の顔にすえた。 「極めて危険な任務になることは、承知の上かね」 「ええ」 「聞く所では、君は日本に長く暮らしていた。日本人と戦うことに、ためらいはないと断言できるか?」  アイダはうんざりした。今まで、うんざりするほど繰り返し聞かされた問いだった。  お前の忠誠はどっちに向いているんだ、『ジャップ(JAP)』?―-というわけだ。  アイダは大佐に言ってやった。 「…お言葉ですが、肌も言葉も同じ者同士が戦うのは、いくらでも先例があるでしょう。この国の独立戦争や南北戦争がいい例です。どっちも白人で英語を話していた連中が殺し合った」  鼻白む大佐に、アイダはすばやくつけ加えた。 「要は頭の中身が違えば、ほかの全部が同じでも、違うものだということですよ」  自分がアメリカ人か、日本人か、決して単純に割り切れるものではない。  だが、今は時代が悪い。白か黒かを示さなければ、両方からつぶされてしまう。  アイダはすでに、そのことを十分に学んでいた。 「――俺は日本人と同じ姿をしていますが、アメリカ市民です」  こうして近い将来の行き先が、卒業を前にして決まったのである。  戦地へ飛ぶ前にもらった休暇で、アイダは両親の家へ帰省した。軍事管轄区域外に住んでいたため、一家はかろうじて収容を免れたのである。母親は久方ぶりに戻って来た息子を暖かく迎え入れ、まだ高校生の弟も兄を歓迎したが、父親だけは違った。冷たく、よそよそしい態度の父は、酒が入った夕食の席で、涙声になって息子をなじった。 「宏之(ひろゆき)。俺はなさけないぞ。なんでお前はよりにもよって、両親の国と戦争しにいくんだ?」  凍りつく食卓を前に、アイダは冷ややかに窓ガラスに目を向けた。三枚が真新しく、一枚は修理が間に合わずに板でふさいであった。真珠湾攻撃以来、日系人を敵視する一部住民の心無い行為のせいだ。  目を壁に転じれば、そこに飾られた写真の表面を覆うガラスのひとつにもひびが入っていた。十二歳のアイダと五歳の弟の間に、二人のちょうど中間といった年齢の少女が写った写真。少女はアイダが日本にいる間に、幼くして病死した妹であった。  アイダはそこから視線を父に戻した。  父親が泣く姿が、無性に腹立たしかった。 「…父さん。日本の軍隊が攻撃したハワイには、父さんや母さんのような日本人と、俺みたいな日系二世(ニセイ)が十万人以上も暮らしていたそうだ」 「宏之…?」 「それでも日本の軍隊は、そこに航空機を飛ばして爆弾を落として行った。ひどい話だと思わないか?」  開戦以来、たまり続けていた不満をアイダは父親に向けて吐き出した。 「アメリカに住む日本人のことを本当に考えてくれていたら、そんなことはしないはずだ。でも、彼らはやった」  要は俺たちなんて眼中になかったんだ――アイダは言った。 「いいかげんに目を覚ませよ。父さんや母さんや俺たちは、日本から見捨てられたんだ」  パアンと高い音がして、アイダの頬に痛みがはじけた。目を泣き腫らした父親が席を蹴って、自分の寝室へと引き上げて行く。  翌朝、アイダが出発する時になっても、父親はついに見送りに出て来ることはなかった。

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