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第十三章(⑮)
一九四二年七月、リチャード・ヒロユキ・アイダ軍曹はニューギニア島にある連合軍の拠点ポートモスレビーに降り立った。そこでオーストリア兵、アメリカ兵から成る少数混成部隊の一員として迎え入れられた。
以降は、波のように引いたり押したりする戦線の最前部と側面にあって、手に入った日本語の情報を翻訳し、後方へと送り続けた。戦闘ともなれば、自身も一兵士として戦った。一番、周囲に気を配らなければいけないのはこの時だった。敵だけでなく、味方に日本兵と誤認されて撃たれかねなかったからだ。実際、そんな危険に何回も遭遇している。そして戦闘が終われば、遺棄された敵の陣地や敵兵の死体から、文字で書かれたものがないか探しまくった。少数の敵部隊を見つけ、夜陰に乗じて忍び寄り、始末した相手の懐中から日記などを手に入れたこともあった。
同じ顔をした「敵」を、アイダは自分でも数を数えられないくらいに殺した。
時々、そうした夜の夢に父親が現れた。だが、それにもだんだん慣れていった。
しかし、何度かの短い休暇を挟み、またニューギニアの地を踏んだ四日後。一九四三年十月二十日のことだ。アイダの戦争は本人の意思と無関係に、突然終わりを告げた。
その日、部隊に新たにやって来た兵士の名前を、アイダはいまだに思い出せない。覚えているのは、つやつやした血色のいい頬を持っていたことと、やたらと勇ましく自分を見せようとしていたことだ。早急に適当な怪我をして、後方に運ばれた方が本人にとっても周囲にとってもいい、と握手しながらアイダは皮肉っぽく思ったものだ。
残念ながら、その希望が叶うことはなかった。新兵が踏んだ地雷に、日本軍が火薬と鉄くずを少々多めにサービスしていたせいで、彼は後方に送られる前に死んだからだ。そして至近距離にいたアイダは巻き添えを食って、重傷を負った。
味方のいる後方にただちに移送されたがものの、それから数日、アイダは生死の境をさまよった。運び込まれたブリスベンの軍病院で、自分の身体にあるのと同じだけの輸血をされ、裂けてえぐれた肉を何十針と縫い、右足を左足より五ミリほど短くした末、ようやく生き延びたのである。そして足に、一生涯つきあっていかなければならない傷跡が残った。手術をした軍医は、二度とまともに歩けないだろうとアイダに言い渡した。
歩けなければ、退役せざるを得ない。だが、障害を持つ男が、一体どんな職につける?
まして『ジャップ 』の男が。
「――何としても、もう一度立ち上がるしかないと思ったよ」
軍医の許可が出るより先に、アイダは自分からベッドを這いだしていた。
…その男に出会ったのは、何とか自力で廊下まで出られるようになった頃だった。壁によりかかりながら、亀のようなのろさで進んでいたアイダは、自分に向けられている視線に気づいた。目をやると、ひとりの若い軍人が階段のところに立って不思議そうな目で、こちらを見ていた。アイダはそれを無視して再び歩き出したが、二歩も行かない内にバランスを崩して転倒した。すると、くだんの男がアイダの方にやって来た。近くまで来た時、大尉の徽章をつけているのが、アイダの目に留まった。
「手を貸そうかい?」
親切な申し出に、アイダは手を振った。
「けっこうです。自分で立てます」
そして彼に背中を向けると、寄りかかった壁をじりじり上がり、本当に自分の足で立ちあがった。アイダは男から離れ、自分の病室の前までまた亀の速度で進んだ。
たどり着き、さてもう一度、と振り返った時、アイダは目をしばたかせた。
先ほどの大尉が、壁に寄りかかってアイダの方を見ていた。
「もう手は出さないよ」
そう言って、彼は大きな口をほころばせた。
「でも、もう少し、ここで見ていてもいいかい?」
アイダは返事をしなかった。無視することに決めたのだ。大尉はそれでも、子どもが振り子時計を見つめるように、アイダの行動を黙って観察していた。
翌日も。そして、その翌日も。
三日目、アイダは降参して、やって来た大尉に自分から声をかけた。
それが、緑の眼と派手な赤毛を持つ変わり者の男―ダニエル・クリアウォーター大尉との出会いだった。
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