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第十三章(⑯)
「ちょうど同じ頃、俺の入院していた病院にはフェルミがいたんだ。クリアウォーター少佐は少し前に病院を脱走したフェルミを見つけて連れ戻したことがあって、それが縁であいつの様子を時々、見に来ていた。で、俺とも縁がつながったというわけだ」
三ヶ月半後、アイダは退院した。まだ杖をついていたが、それでも杖さえあれば自力で階段を登れるほどに回復していた。さすがに前線に戻ることはなかったが、軍にとどまることは認められた。入院中からすでに予想していたように、配属されたのは連合軍翻訳通訳部 ――直属の上司は、ダニエル・クリアウォーター大尉であった。
「――机仕事が中心になると思うけど。それでよかったら、私のところで働いてみる気はないかい?」
知り合ってしばらく経った頃、クリアウォーターがそう提案した。その誘いは、退役を望まないアイダには、非常にありがたいものだった。だが、生来の皮肉っぽい気質に、怪我で多少鬱屈していたこともあって、口から出たのは自分でも辛辣に思える言葉だった。
「…噂でうかがいましたよ。例の脱走坊や のことも引き取るって、病院の軍医たちに啖呵を切ったそうじゃないですか」
アイダは自分の右足を手で示した。
「その上、世間から見りゃ、もう使い物にならない兵士の面倒まで見るとなれば、けっこうな負担になりますよ。そのあたり、ちゃんと考えています?」
一時の同情だけでクリアウォーターが提案しているなら、断った方が互いのためだ。知り合ってそう日は経っていないが、アイダはクリアウォーターの気質をある程度、把握していた。
この赤毛の大尉には、軍人としては欠点に含まれるであろう甘い一面がある。
特に、世間から疎外されている類の者に、それはよく向けられるようだった。
アイダの問いを聞き、クリアウォーターが返してきた答えは意外なものだった。
「――アイダ曹長。さっき、君は自分が『使い物にならない』と言ったけど、それは君自身の評価かい?」
アイダはとっさに、答えられなかった。クリアウォーターは言った。
「君は自分に何ができて、何ができないかを、他人に決めつけられてよしとする人間か?」
クリアウォーターの浮かべた笑みは穏やかだが、目は珍しく笑っていなかった。
「ーー仮にそんな人間なら、とうの昔に医者の言葉を受け入れて、ベッドで自己憐憫にひたっていたと思うよ。でも君はそうじゃない。這 いつくばりながらも、歩こうとしている。だから、私は君に目をとめたんだ」
クリアウォーターが時計を見て立ち上がる。そろそろ、仕事に戻るという合図だ。
「まあ、何ができるかもだけど、何がしたいかも考えて、決断すればいいよ。私が言うまでもないだろうけど」
「…ええ。そうですね。考える時間だけは、たっぷりある」
アイダがゆっくり立ち上がるのを、クリアウォーターは待っていてくれた。
別れ間際に、アイダはクリアウォーターを引きとめた。
「…大尉。次、お時間がある時でいいんで。大尉のところではどんな仕事がされているか、話せる範囲で教えていただけますか」
聞いたクリアウォーターのうれしそうな顔を見て、アイダは思った。
――なんだか……あれだな。変わった人だ。
以来、アイダはずっとクリアウォーターの部下として働いてきた。連合軍が勝利を重ね、戦線がどんどん北上するのにともなって、連合軍翻訳通訳部 もオーストラリアのブリスベンからフィリピンのマニラへと移動する。そして、一九四五年八月。日本はポツダム宣言を受諾し、降伏。九月二日に調印され即日発効された。
真珠湾攻撃から三年九ヶ月にわたるアメリカと日本の戦争は、ここに幕を閉じたのである。
その月の内に、アイダはクリアウォーターにつき従って、七年半ぶりに日本の土を踏んだ。
再び目にした東京の街からは、かつての面影が根こそぎ失われていた。どこを歩いても焼け残ったビル以外で目につくのは一面の焼野原と、そのあとにぽつりぽつりと建ち出したバラック小屋ばかりだった。アイダが昔、暮らしていた叔父夫婦の家も空襲で焼失していた。幸い夫婦は親類のいる群馬に疎開していて無事だったが、当分の間、東京にもどるつもりはないとのことだった。
…叔父夫婦の家の近くまで来た時、アイダの足は自然と麻布の広尾町に向かった。行ってみてアイダは驚いた。一面の焼野原の中で赤十字病院とあの公園は、昔のままの姿で残っていた。そして、周辺の家々も。
アイダは不自由な足で出せる最大の速さで、その家へ向かった。甘くも苦い、夏の短いひと時を過ごした場所。記憶にある門の前に立った時も、まだ自分の目が信じられなかった。
アイダは門を叩き、日本語で声をかけた。出て来たモンペ姿の中年の女に、アイダは見覚えがあった。薫子 が嫁いでくる時に、一緒にやって来た古株の女中だ。彼女はアイダの軍服を目にした途端、腰を抜かさんばかりに驚いた。だが、顔をよく見て、訪ねてきた男の正体に気づくと、ほとんど失神しそうになった。
青ざめた女中は「今すぐ帰れ」の一点張りで、らちが明かない。その時、アイダは視線を感じて、二階を振り仰いだ。反射的に、窓のところに薫子が立っていることを予測したが、それは外れた。
そこにいたのは、おかっぱ頭の小さな女の子だった。
滅多なことで動じないアイダが、その瞬間、息を止めた。幽霊を見たと思ったのだ。
女の子は、アメリカで病死した妹にうりふたつだったのである。
だが直後に、もっと恐ろしい事実に気づいた。
女中を強引に押しのけて、アイダはもつれる足で玄関に飛び込んだ。
「――薫子! おい、薫子。いるんだろう!!」
その声の残響が消えると同時に、薄暗い廊下の奥から人影が現れた。痩せて、色の悪くなった顔には八年の歳月がしわとなって刻まれていた。
だが、そんなやつれた姿でも、薫子はぞくりとするくらいに美しかった。
「…騒がないでちょうだい。ご近所の迷惑になるでしょう」
そして昔と同じく、この上なく冷ややかな口調でアイダをたしなめた。
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