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第十三章(⑰)
「――薫子 の夫は、満洲でソ連軍に殺されたか、捕虜になったらしい。どちらにせよ、いまだに家に戻って来ていない。彼女は女中と同じで、俺を見て二度と来るなと言った。特に、俺が繁子 と会うのを許そうとしなかった。理由は――分かるよな? この一年で、あの子は俺にますます似てきた」
アイダは「だが」と皮肉っぽく笑った。
「俺も年をとって多少は悪知恵が働くようになった。薫子はお嬢様育ちだ。実家に戻れればまだよかったが、彼女の家も空襲で財産をあらかた失った。だから夫がいつ戻るか分からない家で、貧乏暮しを続けなければいけない身だ。それにいい加減、嫌気がさしているのはすぐ分かった。たとえ周囲の女が我慢できても、育ちの違う自分は耐えられない。耐えられないことに逆に優越感を覚える、そんな女だ。俺が暮らしを援助すると言ったら、目の色が変わったよ」
薫子はアイダの申し出を受け、それと引き換えに週末だけ娘に会うことを許した。それでも実の父親だと名乗り上げることだけは、決して認めなかった。
「『お父さん』って呼んでいた人が本当の父親じゃなかったって知ったら、繁子がかわいそうでしょう」
薫子はそう理由を説明したが、本当は昔の浮気が発覚して、自分の世間体が傷つくのを恐れているだけじゃないかとアイダは見ていた。しかし、繁子が不義の子として、周りからいじめられることは、アイダも避けたいところだった。
アイダは薫子の親戚として、近所の者に紹介された。そして実の娘からは、「会田のおじちゃん」と呼ばれるようになった。それ以来、アイダは毎週末になると、PXで買った食料や煙草、ちょっとしたプレゼントを持って、麻布を訪れるようになった。食べきれない食料や煙草を女中がヤミ市に持ち込み、他の生活用品と変えるのについては見て見ぬふりをした。
薫子はアイダが来るたびに、アメリカ製のストッキングや化粧品をねだったが、アイダは大抵はねつけて滅多に持って来なかった。そのかわり、繁子のために栄養がある食べ物や、彼女が喜びそうなものは欠かすことがなかった。
薫子の家で、アイダは繁子らと食卓を囲み、食後には娘が宿題をするのを見てやったり、一緒にすごろくで遊んでやったりした。穏やかに時間が流れ、やがて子どもの繁子は先に眠る。
しかし、幼い娘は時々、真夜中にうなされ、泣きだし、起きてくることがしばしばだった。
「…空襲のことを夢に見るんだ。東京の街が真っ赤に燃えている光景や、日が昇ってから街のあちこちに積み上げられた炭のように焦げた死体を」
アイダは目を伏せた。
「空襲に遭った時、あの子はたったの七歳だった。サイレンが鳴り響いて、防空壕に入る。爆弾が落ちる音を聞きながら、いつかそれが自分の上に落ちると考えながら、怯えて夜を過ごした。そんなもの、大の大人だって発狂しそうな状況だ。一方、俺はといえば……自分の子どもがそんな恐ろしい目に遭っているなんて少しも知らずに、ひたすら日本を負かすための仕事に没頭していた」
アイダの口元がゆがむ。笑おうとして失敗した顔。声が、かすかに震えた。
「何のことはない。親父や俺たちを見捨てたこの国 と同じだ。俺はあの子のことなんて、これっぽっちも考えてやれなかったんだ」
娘の存在を知らなかったのだから、仕方のないことだった――そう言ってなぐさめることもできたかもしれない。その時、カトウの頭に、先ほど女中に手を引かれてやって来た少女の姿が浮かんだ。はずむような足取りで、アイダを見つけた途端、ぱっと顔を輝かせた――。
「先ほど、あの子が履いていた赤い靴。准尉がプレゼントしたんですか?」
アイダはけげんな顔をしたが、「ああ」とうなずいた。
「ちょうど靴がきつくなってきたから。少し早い誕生日プレゼントのつもりで渡したんだ」
「すごく気に入っているように、俺には見えましたよ」
アイダはしげしげとカトウを眺め、やがてかすかに笑った。
「そうか。それならよかった。何を渡しても、『ありがとう』と言う子だから、正直、本当に喜んでくれたか心配していたんだ」
そう言って、アイダは目元を軽く押さえた。カトウは見てえていないふりをした。
「本当にできた娘なんだ。――ろくでなしの両親に似ずにな」
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