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第十四章(①)

 今日のことは他言しない、とカトウはアイダに誓った。 「恩に着る。カトウ軍曹」  アイダはカトウに向かって敬礼し、薫子の家へ向かって歩き出した。遠ざかるアイダの後ろ姿を眺めながら、いつもより右足の動きが少しだけなめらかになったようだと、カトウは思った。 「…さてと」  腕時計を見ると、まだ昼の十一時にもなっていない。ニイガタを追いかけて行ったササキのことが気になったが、どこへ行ったものか見当がつかないし、第一、財布の中身も心もとない。  カトウは一度、寮にもどることにした。    ……今日という日は、よほど前触れなく知人に出くわす日らしい。  腹をすかせて戻って来たカトウは、管理人の杉原翁に簡単な昼食をお願いした。杉原は快く承諾してから、はたと思い出した顔になり、「お客さんが来てますよ」とカトウに告げた。 「加藤さんのお部屋の前でずっとお待ちです。前にもいらっしゃった方ですよ。え、名前? あー確か…『じゅげむじゅげむ』みたいな長いお名前でしたけど、ちょっと正確に覚えておりません。すみませんね」  カトウが階段を上がると、部屋の前に狐のお面をかぶった兵士が、スケッチブックを抱えて座り込んだ状態でうたた寝していた。 「………」  無視してやり過ごしたいところだが、入口を占拠されているのでそういうわけにもいかない。仕方なく、カトウは知り合いの肩をゆすった。 「おい、起きろ。トノーニ・ジュゼベ・ル……ルミノール・フェルミ」 「…ちょっと惜しいけど、違うよ。ぼくの名前はトノーニ・ジュゼベ・ルシアーノ・フェルミだってば…」  不機嫌そうにつぶやいて、フェルミはお面を額の上に上げた。片方しかない目をあけ、ぱちぱちとしばたかせる。その目がカトウの姿を認めて、まばたきを止める。「わおっ」とフェルミははしゃいだ声を上げた。 「どうしたの、その格好?」 「…知り合いの人に、もらったんだよ。お前、俺の部屋の前で何してるんだ。また、何か思いついたのか?」 「ううん。ただ休みだから、遊びに来たの」 「……なんでまた、俺のところに?」  それを聞いたフェルミは「?」という表情で、小首をかしげた。 「休みの日に、友だちのところに遊びに来るのが、そんなに不思議?」 「………」  一体、いつ俺とお前は友だちになった?  そう言いかけて、カトウは自分でも少し無情すぎることに気づいた。  クリアウォーターとのことで以前、フェルミには冷たくあたったが、誤解が解けた現在では、フェルミに対する悪感情や嫉妬はもうない。まあ、少々の苦手意識は残っているが。  フェルミは無邪気そのものの顔で、スケッチブックをかかげた。 「そうだ。ちょうどいいや。その格好で、絵のモデルになってよ。あとでお菓子あげるからさ」 「…分かったよ」カトウは答えた。  前に冷たくした分くらい、やさしくしてやるのが筋だろう。多分。 「ただし俺、昼飯まだだから。それが済んでからな」  結局、側頭部に例の奇天烈な狐の面をかぶらされる羽目になった。カトウはその姿でベッドの上に足を投げ出し、壁に寄りかかって読みかけの文庫本を読んだ。フェルミはせっせと鉛筆を動かして、カトウの姿をスケッチブックの上に描きとっていく。 「前に一緒に畳のある部屋に泊まったでしょ。その時、部屋をスケッチしたから。それと組み合わせたら、いい感じになると思うんだ」  途中で構図を変える時に、カトウは描かれた自分の姿をフェルミに見せてもらった。フェルミの絵がうまいのはよく知っている。  だが、紙の上の男を見て、カトウは変な気持ちになった。  自分の顔は毎日、鏡を見て知っている。暗くて、貧相で、生気がなくて――しかし絵の男は少し違った。一見、物憂げだが、同時に不思議な透明感があり、ほんのかすかに笑っている。  おかしな話だが、何か気品のようなものまで感じられた。 「……これ、本当に俺か?」  そう言うと、フェルミがぷうっと頬をふくらませた。 「えー、気に入らなかった?」 「いや。不満があるんじゃない。逆に……へんに美化されている気がする」  大体、笑わないだろう。カトウが言うと、フェルミが反論した。 「笑ってるよ。特に、最近よく笑ってる」 「…うそだろ」 「本当だよ」  カトウはもう一度、紙の上の男を眺めた。まいったな、と思った。  本当にこんな風な姿をしているならいいのに、と思えてきた。  夕方になって、フェルミは満足そうにスケッチブックを閉じた。帰り支度をはじめる絵描きの同僚に向かって、カトウはたずねた。 「お前、夕飯はどうするつもりだ?」 「えー…適当に何か買って、宿舎で食べるつもり」 「なら、少し早いけど一緒に食べに行くか?」  フェルミは数秒ほど、目をぱちぱちさせた。  それから、傷のない半面に屈託のない笑みを浮かべ、「うん!」と答えた。

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