209 / 264

第十四章(②)

 いつもの軍服に着替えたカトウは、フェルミを連れて新宿へ向かった。目的地は翻訳業務室のメンバーの行きつけの店だ。あそこなら五時過ぎには開店しているし、値段もそんなに高くはない。  入口に足を踏み入れたカトウは、薄暗い店内を見わたして、空席を探そうとした。  その目がふと窓際の席に注がれた。米軍の軍服を着た男と派手な身なりの女がテーブルを挟んで座っている。ちょうど女の方が、入店してきたカトウたちに顔を向けた。唇に真っ赤なルージュを引いたその顔に、カトウは見覚えがあった。  間違いない。今朝、ニイガタ少尉のそばにいたあの若い女だ。  その時、カトウは突然、「あっ」と思い至った。U機関に来た初日。この店で飲み食いした後、店の外でカトウとササキに声をかけてきた、あのパンパン(街娼)の女じゃないか!  カトウは店の中を突っ切り、女の対面に座る男の頭上から「おい」ときつめの声を浴びせた。男が椅子の上で飛び上がり、びっくりした表情でカトウを見上げる。  浅黒いササキの顔を、カトウは軽くにらみつけてやった。  突然の邪魔者の登場に、女は少しすねたようだった。しかし、何か思う所があるらしく、急に愛想よくなると、カトウと後ろからやって来たフェルミに同席するよう促した。 「あたし、ユキコって言うの。空から降ってくる『雪』に、子どもの『子』で、『雪子』」  そう言われれば、カトウの方も名乗らぬわけにいかない。さらにササキの同僚だと告げると、雪子がカトウの方に身を乗り出してきた。 「じゃあ、あなたも新潟さんの部下なの?」  答えようとした矢先、カトウはテーブルの下で足を思い切り蹴飛ばされた。 「いや、同僚ってゆうても、ミィと働いてる部屋違うけん、部下とは違うんじゃ。のう!」  ササキの声は軽く上ずっていて、いかにもわざとらしい。しかし、さすがに言いたいことは伝わった。カトウはとっさにうなずき、口裏を合わせた。 「うん。俺は部屋が違うから、普段は会わないよ」 「あら、そう」  聞いた雪子は露骨に失望した。そして、すっかり興ざめしたらしい。ハンドバッグを手にすると、そのまま椅子から立ち上がった。 「…あたし、そろそろ仕事にもどらなくっちゃ。今日はありがとう、佐々木さん」  歩き出した時、雪子は少しよろめいた。ヒールの高い靴に慣れていないのかもしれない。しかし、すぐにカツカツという音を立てて、店から出て行った。  日本語を解さず、ことの成り行きが分からないフェルミが、無邪気に英語で聞いた。 「ねえ、あの女の人、マックス・カジロ―・ササキの恋人?」  その言葉に、ササキが盛大にため息をついた。  料理とビールとオレンジジュースが揃ったところで、ササキはようやく説明し出した。 「あの雪子っていう子な。前に他の女の子と、占領軍のたちの悪い男に引っかかてのう。殴られてひどい目に遭っとったところを、ニイガタ少尉に助けてもろたんじゃって」  ところが、この人助けはニイガタにとっては、思わぬ厄災を招いた。ひとつには自分をかばってくれたクリアウォーターが、対敵諜報部隊(CIC)にいられなくなったこと。クリアウォーターはこの一件について「謝罪の必要なし」とニイガタを諭したが、ニイガタはクリアウォーターに一生かかっても返せぬ借りをつくったと感じていた。  そしてもうひとつが――助けたパンパンの娘、雪子につきまとわれるようになったことだ。 「あの子、自分を助けてくれた少尉に惚れたらしいんじゃ。少尉は奥さんがおるけんって、何度も言うたらしいんじゃが…あの子、聞く耳、持たんでのう」  雪子はさすがに仕事場やニイガタの住む宿舎に現れることはなかったが、彼がよく行く店をつかんで、外で待ち伏せするようになった。 「ほら、お前がU機関に来た最初の日に、ニイガタ少尉やアイダ准尉とこの店に来たじゃろ。あの時はミィもまだ事情をよう知らなんだが、その時、店の外であの子が待ち伏せしとったのに少尉が気づいたんじゃ。で、アイダ准尉にミィらのこと頼んで、自分は店の裏口からこっそり逃げ出して帰ったっちゅうわけ」 「…ああ、なるほど」  あの日に起こった出来事を、カトウはようやく理解できた。雪子がアイダを思い切りにらんでいたのは、ニイガタを逃がす手助けをしたアイダを恨んだからだったか。 「その後、あの子の姿をしばらく見かけんで、少尉もようやくあきらめてくれたって思とったんじゃけど、また現れるようになってな。ミィも少尉があの子から逃げるのに、二三回、手を貸したんじゃ」 「それで、今日も助けに行ったわけか」  カトウの言葉に、ササキはうなずいた。 「少尉、奥さんと買い物するためにあそこで待ち合わせしとったら、運悪くあの子に見つかってな。ミィが行って、あの子の気をそらした間に、うまく逃げてくれたわ。……まあ、あの子カンカンになったけど」  ササキは怒る雪子をなだめ、結局そのまま昼食をおごり、その後は映画館に連れて行った。目を離すと、またニイガタのことを探しに行きかねなかったからだ。 「で、映画観終わって、もう夕飯もおごったろうと思って、この店に入ったところで、お前らが来たっちゅうわけ」 「…なんか、大変だったな」とカトウ。 「女の子と過ごすのは楽しいけど、怒ってる女の子と過ごすのは、大変だよね」とフェルミ。 「おう、大変じゃったわ。でも、少尉には毎回、おごってもろてるから。これくらいの恩返しは当然じゃ」とササキは意外に律儀な面を示した。それから、 「そう言えば、お前の方はどうじゃったんじゃ、カトウ。アイダ准尉の件は?」  ビールをあおるササキに、カトウはあらかじめ用意していた答えを言った。 「アイダ准尉の親戚が、麻布のあたりに住んでたんだ。アメリカ兵とつき合っていることが近所の人に知られるといい顔をされないからって、わざわざ日本人の格好をして行ってたんだとさ」 「なあんだ」  ササキはカトウの話を、まったく疑った様子がなかった。 「結局、大山鳴動して鼠一匹か」 「そもそも鳴動させたのは、お前だろうが」  言いながら、カトウが横を見ると、フェルミが腕を組んでこっくりこっくりしだしていた。

ともだちにシェアしよう!