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第十四章(③)

 ササキは船をこぎだした同僚の肩をばしばし叩いた。 「おーい、フェルミー。寝るんは、家に帰ってからにしぃ」 「うー。だからぼくの名前は、トノーニ・ジュゼベ・ルシアーノ・フェルミだって……」  語尾にむにゃむにゃという声が続く。しばらくするとフェルミは寝息を立てはじめた。  ササキは「仕方のないやつじゃのう」とつぶやき、ビールを追加注文しようとする。それを見て、カトウは釘をさした。 「そろそろ、止めといた方がいいんじゃないか。お前にまで酔いつぶれられたら、始末におえない」 「えー。でも、ミィが寝てもお前、連れて帰ってくれるじゃろ」 「酔っぱらい二人は無理だ」そう言って、フェルミを指さす。 「お前とこいつとなら、こっちを連れて帰る」 「ちょっ……何でじゃ? それはちょっと、ミィに冷たすぎと違うか……」 「お前は放っといても大丈夫だろうけど、こいつは色々な意味で心配だろ」 「あー……まあ、そうじゃな」  ササキも納得したようだった。そして、カトウと同じオレンジジュースを注文した。    ササキはとろんとした目を窓の外に向ける。十秒ほど沈黙した後、不意に 「のう、カトウ。お前、日本に親戚おるか?」と聞いてきた。 「…いるけど」 「会いに行ったか?」 「いいや」そっけなく、カトウは答えた。 「そんなに親しくないから」  これは控えめな表現だ。あらゆる方面から見て。ササキは何とも言えない顔になり、 「…冷たいやつじゃのう」と小声で非難した。  カトウはそれについて、何も言わなかった。親戚と自分との関係がどんなものであったか、ササキに説明する気はない。少なくとも今は。 ーー富山の街は空襲のせいで、ずい分焼けたそうだーー。  その話を耳にした時、カトウの頭を最初にかすめたのは「焼けてなくなったんだろうか」だった。  あの忌まわしい家は、焼けて無くなったんだろうか。  あの家の人間たちも、焼けて亡くなったんだろうか。  今日に至るまで、カトウは確認に行っていない。十三歳で富山の街を離れた時、遠ざかる街を列車の中から眺め、カトウが感じたのは寂しさでも惜別の念でもない。やっと解放されたという安堵だ。そして、もう二度と戻らないと自分に誓った。  あの場所に自分から近づくつもりはない。だから正直、どちらでもよかった。伯父一家が生きていようが、死んでいようが。カトウはもう二度と関わらないと、石のように固く心に決めている。  ただ、落ち着いたら。自分を支えてくれた人の消息だけは――色々、目をかけてくれた国民学校の女の先生などの消息だけは、人づてに探してみようと思っていた。  カトウがササキに目をやると、酔った青年はまた窓の方に顔を向けていた。ガラスの表面をなぞるように、黒い目が動く。自分の顔を眺めているのか、それとも街を行く人間を眺めているのか。ササキは独り言のようにつぶやいた。 「…のう、カトウ。お前、この国(日本)が好きか?」  カトウは眉根を寄せる。だが、ササキはカトウの答えは別に求めていないようだった。  カトウが口を開くより先に、ほとんどささやくような声で言った。 「……ミィはのう。日本に来るまで、日本のことが大嫌いじゃった」  カトウは沈黙した。ササキはハワイ出身の日系二世だ。思い当るところがあった。 「…真珠湾攻撃のせいか?」  ササキはうなずいた。当たりだった。 「お前も覚えとるじゃろ。あの日はちょうど日曜日じゃった。高校が休みで、ミィは妹と一緒に、自分ちの畑に出てたんじゃ――」  その日は朝から雲一つない快晴の空が頭上に広がっていた。ササキは水を撒く妹から少し離れた所にいて、伸びてきた雑草を手でひとつひとつ丁寧に抜いていた。  ぶうんという音を聞いたのは、八時まであと少し、という時間だった。顔を上げたササキは、遠くからこちらに飛んでくる航空機の群れを見つけた。妹も気づいて、少しはしゃいだ声を上げた。 「あ、お兄ちゃん。ひこうきじゃ!」 「おお、朝からご苦労じゃな」  ササキは機影に手を振った。この頃、航空隊の軍事演習は珍しいことではなく、この日も日曜日なのに訓練かと思ったくらいだった。  航空機が近づき、その機体の形がはっきりし出した時、ササキはようやくおかしいことに気づいた。演習時によく目にするP―40戦闘機ではない。まして、アメリカ軍のほかの航空機でもない。あれは―――。  爆音とともに、航空機は次々とササキの頭上をかすめるように越えていった。  緑の機体。両翼に真っ赤な日の丸。    機上のどの人間もゴーグルをつけていて、顔がはっきりしなかったが、偶然、その一人がゴーグルを頭の上に上げて地上にいるササキと妹の方を見た。  まだ若いその顔は――ハワイに住む日系人たちにあまりにも酷似していた。  その直後、航空隊が飛んで行った方向から、遠雷のような音が何度も鳴りひびいた。それからひときわ激しい轟音が空気を震わせ、オレンジ色の炎が吹き上がったかと思うと、すぐに真っ黒な煙が青い空めがけて充満しだした。 「お兄ちゃん!!」  異変にようやく気づいた妹が悲鳴を上げた。  ササキは妹を抱え上げると、家へ向かって一目散に駆け出した。  裸足で走るササキの背中で、妹が甲高い声で叫び続ける。 「ねえ、どうしたん? ねえ、何が起こってるん? どうして海が燃えてるんよ!?」 「分からん。ミィも分からんのじゃ!!」  五分ほど走ったところで、自分たちを探しにきた父親と運よく鉢合わせした。汗だくになって、家に転がり込んだ時、電源の入ったラジオが妹と同じくらいに混乱した声を上げていた。 「これは演習ではありません。繰り返します。これは演習ではありません。真珠湾が攻撃されています……!!」

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