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第十四章(④)
日本軍は真珠湾にあったアメリカ海軍の基地と艦船だけに狙いを定めており、市街地と市民を攻撃することは禁止されていた――でも、それはあとで知ったことだ。
妹を背負って走る道中、そして家に帰ってからも、ササキは日本軍の爆撃機が旋回してきて、今度は自分たちの上に爆弾を落とすのではないかと、恐くてたまらなかった。
そしてそれは、ハワイ準州に暮らすほとんどの人間が抱いた思いでもあった。
戒厳令が敷かれる中、水面下で本土のように日系人収容が計画されたが、幸運にもこれは実施されずに終わった。当時、ハワイ準州の全人口は四十数万人。その内、日系人が約十六万人。二世も含め、日系人全員を収容したら、ハワイの社会と経済が間違いなく破綻する。ゆえに計画は頓挫した。
それでも日系人を取り巻く環境は、真珠湾の一日を境に文字通りひっくり返ってしまった。日系一世たちは当局の目を恐れ、故国と関係のあるものをすべて隠すか、捨てるか、焼いた。先祖伝来の古物はひそかに庭の一角に埋められ、少し離れたところでは日本語の本やレコードが次々と火中に投じられる。それまで和装で過ごしてきた老夫人が、慣れぬワンピースと靴を買ってきて身につける。そんな光景があちこちで見られた。
ササキ自身の考え方も大きく変わった。ササキは両親の国に対して、とりたてて思うところはなかった。彼にとって故郷とは常夏の大海原と空を擁したオアフ島であり、将来、旅行で行ってみたい場所はニューヨークかワシントンD.C.だった。日本は、両親が昔住んでいた場所であるが、ササキにとってはそれ以上のものではなかった。
だが両親の国は突然、爆撃機の形をとって、ササキの故郷を攻撃しにやって来た。
以来、ササキは強く日本を意識するようになったーー憎むべき敵国として。
そして、自分の中に流れる日本人の血に一時は、嫌悪に近い感情を持つまでに至った。
……志願して語学兵になった後、ササキはずっとホノルルで勤務していた。あとは時間をかけさえすれば、退役に必要なポイントを満たして元の生活に戻れるはずだった。
しかし、占領統治のために日本語のできる兵員がなお必要であることを耳にしたササキは、日本行きに志願した。両親のためだった。二人とも滅多に口の端に上げることはなかったが、ずっと日本に残っている兄弟姉妹や親類の安否を気にかけていたのだ。
父親は尾道に近い島にある実家を、そして母親は広島市内に住んでいる老母と兄を。
そのころにはすでに、日本の広島と長崎に新型爆弾が落とされ、市街が壊滅状態に陥ったというニュースがハワイにも流れてきていた。
一家の中で軍籍にある自分だけが、日本に行くことができる。だから、行くことを決めたのだが、両親は意外にもあんまり喜んでくれなかった。とりわけ母親は声に出して反対した。
「もう、よしんさい。うちはお前が兵隊に行ったけど、ご先祖さまのおかげでホノルルにいて、何も危なくなくて済んだんじゃ。戦 が終わった今になって、遠くに行くことはない」
ハワイの日系二世の中には四四二連隊の一員としてヨーロッパで戦い、亡くなったものが大勢いた。また太平洋戦線で語学兵として従軍し、帰らぬ身となった者も少なくなかった。
母親は他にも、ロシアが樺太 から攻めてきたらどうするんだとか、朝鮮や台湾が内戦状態になったら戦争に行かされるんじゃないかとか、あれこれ起こりそうもないことを言い立てたが、父親になだめられ、最後にはため息をついて息子を送り出してくれた。
一九四六年一月。ササキは語学兵の一員として、横浜に上陸する。そこで目にしたのは、まだ瓦礫の山が各所に残る焼けた街と、虚ろな顔で歩く日本の人々だった。
まるで日本という国そのものが大きな浮浪者の群れのように、ササキには思えた。
戦前の日本は、「外地」から「内地」へ食料を大量に輸入していた。満洲、朝鮮、台湾など――すでに戦争末期には、それら海外からの輸送路は連合軍の攻撃によって、ほとんど崩壊していた。そして日本の降伏により、それらの地域から日本への食糧輸送は正式にピリオドを打たれたのであるが、時を同じくして、大量の復員兵と「外地」にいた民間人たちが、本土に何百万人という単位で戻って来た。
結果的に、広範囲での飢餓が都市部を中心に全国各地で広まり始めた。
アメリカは自分たちが占領統治する地の危機的な食料事情を改善するために、大量の物資を本国から運び、なんとか万単位の餓死者が出るのを防いだ。それでも慢性的な飢餓は、常に日本人の頭の上にのしかかっていた。
そして彼らと壁一枚へだてた場所で、占領軍であるアメリカ兵たちは本国にいるのとあまり変わらない食生活を享受していた。
「…めちゃくちゃ居心地悪かった」ササキはしみじみと言った。
「ミィは自分がアメリカ人じゃって、ずっと思てきた。今もそうじゃ。でも時々……いたたまれない気持ちになる」
窓の向こうに、ササキは目をやった。
「あの雪子って娘な。アメリカの空襲で家と家族をなくしたから、街娼で身体を売って生きてるそうじゃ。多分、敗戦からつらい目ばっかり遭ってきたから、ニイガタ少尉のことを余計に救世主みたいに考とるんじゃないかと思う」
「…かもしれないな」
「…ミィの親父の実家は無事じゃった。でも、母ちゃんの方はあかんかった。何も手がかりがなくて、結局親父の実家の方から全員死んだらしいって報せが来た。そんなことがあったから、余計に考えてしまうんじゃよ。もし、両親がハワイに移民せんかったら、きっとミィはほかの日本人と同じように、苦しんでいたじゃろうって。ひょっとしたら、もう死んでいたかもしれんって」
そんな風に考え出したら――もう嫌っているだけじゃいられなくなった。
ササキはそう言って、オレンジジュースの最後の一滴を飲みほした。
大ざっぱで単純に見えるササキの意外な一面を、カトウは見た気がした。その一面は案外――カトウと近く、共通する部分を多く持っているのかもしれない。
そんなことを考えていたら、ササキが何か気づいたようにカトウにばつの悪い顔を向けた。
「のう、カトウ。頼みがあるんじゃが」
「何だよ」
「あとで絶対、返すから。ここの支払い、立て替えてくれんか。昼間、あの雪子って子に色々おごったら、ちょっと財布の中身がめちゃくちゃ心もとのうて…」
カトウは、はあっとため息をついた。
「そんなことだろうと思ったよ」
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